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「静かな日常が流れていく」  佐藤遥、32歳。彼女は小さな美容院で働く美容師だ。この美容院は、駅から少し離れた住宅街の一角にあり、派手さこそないが、近隣の住民に愛される憩いの場となっていた。遥は美容師として15年のキャリアを持ち、確かな技術と誠実な接客で多くの常連客を抱えている。どんなに忙しくても、手元の動きは正確で、客の希望を汲み取りながら、いつも最善を尽くす。その姿勢から「佐藤さんに任せれば間違いない」と評判だった。  だが、彼女の私生活は驚くほど平穏で、特筆すべき事件もなく過ぎていた。家と職場を往復する毎日。恋愛にも積極的ではなく、「今は仕事が忙しいから」と自分に言い聞かせ、深く考えないようにしていた。  ある日、遥のもとに一人の新規客が現れた。その男性は、西村慎也と名乗り、柔らかな物腰と落ち着いた雰囲気を持つ40代半ばの人物だった。 「カットをお願いできますか?」  そう言って座った西村の顔を見て、遥は息を呑んだ。 「もしかして……慎也さん?」  遥がその名を口にした瞬間、西村も驚いたように顔を上げた。 「佐藤……遥? 高校のときの?」  それは15年ぶりの再会だった。高校時代、遥は慎也と同じバスケットボール部のマネージャーをしており、慎也はチームのエースだった。互いに特別な感情を抱いていたが、告白することもなく、卒業と同時に別々の道を歩んでいた。 「懐かしいね。まさかこんなところで再会するなんて。」  慎也は微笑みながら言ったが、彼の表情には少しだけ影が差しているように見えた。その理由を尋ねることはできず、遥はただ髪を切る作業に集中した。それから慎也は定期的に遥の美容院を訪れるようになった。彼の話によれば、大学卒業後に外資系企業に就職し、現在は地方の関連会社で管理職を務めているという。仕事のストレスは多いものの、充実した日々を送っているようだった。  一方で、彼の左手薬指には指輪がなかった。遥はそれに気づきながらも、何も尋ねなかった。 「どうして離婚したんだろう?」  そんな思いが頭をよぎるたび、自分の感情が揺さぶられるのを感じた。高校時代の淡い恋心が、再び胸の中で芽生えつつあったからだ。  ある日の夜、慎也が美容院を訪れたとき、店には他に客がいなかった。カットが終わり、慎也が席を立とうとしたとき、遥が意を決して口を開いた。 「慎也さん、少しだけ話してもいいですか?」 慎也は驚いたようだったが、静かに頷いた。 「高校のとき、私はずっと慎也さんのことが好きでした。でも、それを伝える勇気がなかった。だから、卒業してからもずっと後悔してたんです。」  遥の言葉に慎也は目を見開いた。そして、少し間を置いて口を開いた。 「……遥、俺も同じ気持ちだったよ。でも、俺はあの頃、自分に自信がなかった。大学に行って、いい会社に就職して、それからじゃないと君にふさわしくないと思ってた。」  慎也の声は震えていた。 「だけど、俺はその間に違う道を選んでしまった。それが正しかったのかどうか、今でも分からない。」  彼の言葉に、遥はただ頷いた。それ以上、何も言うことができなかった。  それからしばらく、慎也は美容院に来なくなった。遥は彼のことを思い出すたびに胸が痛んだが、無理に忘れようとはしなかった。数ヶ月後、慎也から一通の手紙が届いた。 「遥へ あのとき、君に本当の気持ちを伝える勇気がなかったことを後悔しています。けれど、君と再会したことで、もう一度自分の人生を見直す決意ができました。これからの道をどう進むべきか、しっかり考えます。君もどうか、自分の幸せを見つけてください。」  手紙を読んだ遥は、涙を流しながら微笑んだ。そして、自分の人生を自分で切り開く決意を新たにした。鏡に映る自分の姿に向かって、静かにこうつぶやいた。 「これからは、自分を大切にしていこう。」  その日から、遥は少しずつ、自分の新しい未来を描き始めた。
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灯りの消えない場所

「今日も客は来るだろうか……」 夕方5時、陽が傾き始めた街の片隅で、居酒屋「古川屋」の小さな提灯に火が灯る。店の名前が書かれた布地はところどころ色褪せ、端がほつれている。鉄製の引き戸を開けると、薄暗い店内にカウンター席が6つ、壁際には小さなテーブル席が2つだけ。そのどれもが長年使い込まれ、傷や染みが目立っていた。 店主の古川重雄は、厨房の奥で魚をさばきながら、何度目かのため息をついた。50代後半、くたびれたエプロンを身に着けた彼の顔には深い皺が刻まれ、その目には年々色あせるような疲れが宿っている。 小声で呟いたその言葉は、誰にも届かないまま、店内に吸い込まれて消えた。重雄がこの居酒屋を引き継いだのは、30年前のことだった。大学を卒業後、東京の大手食品会社に就職したが、父親が急死したのを機に故郷のこの店を継ぐことになった。 「この店は古川家の顔だ。絶やすわけにはいかない。」 病床でそう語った父の言葉が、ずっと頭の片隅に残っている。若い頃の重雄は、それを誇りと思っていた。だが、時代の波は容赦なく、この小さな居酒屋に押し寄せた。昔は常連客で賑わっていた店も、駅前の再開発が進むにつれて客足が減り、近くにできたチェーン居酒屋に取られてしまった。 客の来ない日が続く中、店を閉めることを考えたこともあった。だが、閉店の決断をするたびに、店の片隅に飾られた父親の遺影が目に入る。その目は、重雄をじっと見つめているようだった。 「この店を守るって、あのとき誓ったんだ……」 そう自分に言い聞かせながら、日々の仕入れを続け、カウンターの磨り減った木目を拭き上げてきた。夜8時を過ぎても、店内は静かなままだった。厨房で古いラジオが流す演歌だけが響いている。重雄は缶ビールを開け、冷めたまかないの煮物をつついていた。 「客が来ないのに店を開け続けるのは、もう自己満足に過ぎないのかもしれないな。」 そう思うことが、最近増えてきた。だが、そのとき、引き戸がゆっくりと開いた。 「やってる?」 顔を出したのは、70代くらいの年配の男性だった。どこかで見たことがある気がしたが、思い出せない。 「ええ、どうぞ。」 重雄が慌てて答えると、男性はゆっくりとカウンター席に座り、こう言った。 「昔、この店に来たことがあるんだ。まだお父さんが生きてた頃だったかな。」 その言葉に、重雄は驚きと共に、どこか懐かしさを覚えた。客が頼んだのは、瓶ビールと塩辛だけだった。重雄が手際よくそれを用意しながら尋ねる。 「随分久しぶりですね。どうしてまた来てくれたんですか?」 客は一口ビールを飲むと、微笑みながら答えた。 「ふと、この店のことを思い出したんだ。あの頃、仕事が辛くてね。お父さんの料理と笑顔に、ずいぶん助けられた。」 「父の……」 「そうさ。こんな小さな店だけど、人の心を温める力があった。」 その言葉に、重雄は返す言葉が見つからなかった。その夜、客が帰った後、重雄はカウンターを拭きながら、何度もその言葉を反芻していた。 「人の心を温める力があった……か。」 この店が誰かの記憶の中で生き続けているということ。それは、父親がこの店に込めた思いが、少しでも残っている証拠なのかもしれない。それが、自分がこの場所に留まる理由なのだろうか――重雄は、初めてそんなことを思った。 翌朝、重雄は少し早く起き、いつもより念入りに店を掃除した。埃の溜まった棚も、古びた提灯も、磨けばまだ光ることに気づいた。 「こんな店でも、来てくれる人がいる。」 そう思うと、重雄の胸の中に、ほんの少しだけ温かいものが灯るのを感じた。それは、父が守ってきた店の灯りが、自分の中でも消えていないことを示しているようだった。

砂上に描く未来、海風が削りゆく彼方へ

「砂が舞っている」 2050年、日本。気候変動や人口減少、終わりの見えない経済不況に直面する中、史上最年少で内閣総理大臣に就任した佐伯隆一は、多忙な日々を縫って自らの趣味である陶芸に没頭していた。土に触れることで得られる感覚と、轆轤(ろくろ)を回すリズムは、彼にとって唯一の安らぎであり、混沌とした政治の世界から逃れるための小さな隠れ家だった。 佐伯は幼少期から器用な手先を持ち、祖父の影響で陶芸を始めた。大学時代に政治の道を志してからも、土に触れる時間だけは大切にしてきた。だが、総理大臣となった今、その静かな時間は限られている。それでも夜半、閣僚会議が終わると執務室の片隅に設えた小さな陶芸スペースに向かい、轆轤を回すことで疲弊した精神を癒やしていた。 ある日、佐伯は少年時代に訪れた山陰地方の陶芸家の窯を訪れることを思い立つ。その地は、彼が最初に「土の声」を聞いた場所であり、素朴な釉薬が示す微妙な色彩の美しさに心を打たれた記憶が蘇る。少年時代に作った小皿がまだ窯元に保管されていると知り、彼はこっそりその地を再訪する。 しかし、訪れた窯元では、かつての職人たちは姿を消し、後継者不足による閉鎖の危機に瀕していた。佐伯は陶芸の世界に戻りたいという衝動に駆られるが、それは政治を投げ出すことを意味していた。彼は、国民の未来を守る政治家としての使命と、土に触れることでしか得られない自身の心の平穏との狭間で苦悩する。 土に触れるたびに佐伯は自問する。自らの手で形作る器のように、日本の未来を自らの手で作り出すことができるのか、と。そして、彼が政治と陶芸の狭間で見出した答えは、誰も予想しなかった形で国家の運命を動かしていく。 佐伯隆一が総理大臣に就任したのは42歳のときだった。日本史上最年少の総理として、国内外の注目を一身に集めた彼の背負う課題は膨大だった。気候変動による度重なる災害、高齢化社会の影響で急激に縮小する経済規模、そして国際的な政治バランスの中で揺れ動く国家の独立性。これらを一挙に解決することを国民から期待された彼は、まるで限りなく高く積み上げられた砂山の上に立つような心地だった。 政治の最前線に立つ彼の日々は、時間に追われ、複雑な利害関係を調整するための応酬に満ちていた。昼夜を問わず叩き起こされる電話、途切れることのない閣僚会議、そしてどんなに疲れていようと要求される冷静な判断。だがその忙しさの中で、佐伯は自分自身を失わないための小さな灯を持っていた。それが陶芸だった。 佐伯の陶芸への愛着は、幼少期の記憶に深く根差していた。祖父の家の庭にあった小さな窯が彼の最初の陶芸体験の場だった。指先で土を形作る感触、轆轤の回転に身を委ねるリズム、そして焼き上がった器の微妙な光沢。幼い佐伯にとって、陶芸は単なる趣味を超えた、世界との接点だった。土に触れる時間は、彼の中で揺れ動く感情を沈め、平穏をもたらしてくれたのだ。 総理官邸の片隅にある陶芸室。就任後も彼はその趣味を手放すことはなかった。官邸の片隅に設えた陶芸室には、轆轤や粘土、釉薬が整然と並べられていた。その空間は彼にとって、政策や利害関係に縛られる日常とは異なる自由な時間を提供してくれる場所だった。轆轤を回しながら、彼は時折、思考を整理する。土が轆轤の回転に応じて形を変えていく様子を見つめながら、国家という巨大な器をどう形作ればいいのかを考える。 しかし、その夜の時間も限られていた。日付を跨いだ閣僚会議が終われば、陶芸室に向かう体力も残されていない日も多い。佐伯は、どこかに「土の声」が響かなくなりつつある自分に気づき始めていた。それでも、政治の中で得ることのできない実感を、土から取り戻そうと必死だった。 ある日、閣僚会議での激論の後、佐伯はふと手元の書類から顔を上げ、机の端に置かれた陶器の小皿に目を留めた。それは幼いころに祖父とともに訪れた山陰地方の窯元で作ったものだった。その素朴な造形と不完全な釉薬のかかり具合には、子供だった自分の拙さと純粋さが刻まれていた。いつの間にか、その窯元を再訪するという考えが頭をよぎった。 週末、厳重な警備を最低限に留め、佐伯はその窯元をこっそり訪れた。しかし、彼を待ち受けていたのは衰退の影だった。職人たちは高齢化し、後継者は見つからず、窯元は閉鎖の危機に瀕していた。土とともに生きる人々の暮らしが消えつつある現実に直面した佐伯は、深い無力感を覚える。 その夜、宿に戻った佐伯は、持ち帰った粘土で小さな茶碗を作り始めた。轆轤を回す手は確かだったが、その指先から生まれる形にはどこか緊張がにじんでいた。彼は土を握りながら思った。政治という形のないものを作り上げるのと、土を形にするのとではどちらが難しいのだろうか、と。 陶芸に没頭する中で、佐伯の心に一つの考えが浮かび上がる。日本という国家の未来を、土を焼く炎の中で見つめ直すことができないか。彼は陶芸を通じた地域活性化プロジェクトを提案し、全国の職人たちを結びつけるネットワークを構築することを思い立つ。それはただの文化振興にとどまらず、失われつつある職人技術を国家の誇りとして復興させる挑戦でもあった。 一方で、政治と陶芸の狭間に揺れる彼の葛藤は深まるばかりだった。轆轤を回すたびに問い直す。国家の未来を形作るとはどういうことなのか、そして自らが総理大臣という役割を超えて、一人の人間として何を残すべきなのか、と。その先に待ち受けている答えは、彼が焼き上げる器の中に、そして日本という国の未来の形の中に秘められている――。

静かなる荒川で起きた殺人事件 第3話

あの老人は一体何者なのだろうか。お茶を飲みながら頭の中を整理する。熱で膨張した思考回路は、限界まで膨れ上がった風船のようだった。どこかで弾けそうな危うさを感じながらも、収束することなく、さらに混乱の渦に引き込まれていく。情報の処理にはまだ時間が掛かりそうだった。 その後、この店の常連らしい客から話を聞くことができた。老人はいつも浴びるように酒を飲んでいて、誰彼構わず話しかけては喧嘩になり、警察の世話になることもしばしばあるという。この界隈では要注意人物として、皆に警戒されているようだった。 私の腕には浅い痣が浮かんでいた。この痣を見るたびに心が沈み、治るまでの間、鬱陶しさがつきまとった。うんざりするほどの嫌悪感に包まれた日々が、終わりなく続いているかのようだった。実にくだらない。私はゴミ捨て場に巣食うドブネズミと変わらない。そんな自分を卑下するような負の感情が頭から離れず、燻っていた。 この一件以来、私はこの街が嫌いになった。酒を飲むなどもってのほかだ。上京して間もない頃の私は、まるで夢の中にいるかのように浮かれた気持ちで毎日を過ごしていた。この街は電車の便が非常に良いことを除けば、特に魅力のない場所だ。今ではそう思っている。私には東京の土地勘が一切なかった。予算の都合で仕方がなかったといえばそれまでだが、実情を知っていたら、この街を選ぶことは絶対にない。 私は河川敷に向かって再び歩き始めた。 待ち合わせの時刻は20時だ。荒川を跨ぐ大きな橋の前の交差点で落ち合うことになっている。どうやら花子よりも早くに到着したようだ。ポケットの中のハンドタオルで汗を拭う。伸び放題の雑草が、四方八方に葉を広げている。我こそ太陽の光を一身に浴びるのだと言わんばかりの生え方だ。周りの個体のことなど考えているわけがない。 私は道路脇に佇む壊れかけのベンチを見つけた。これはおそらく自治体が設置したものではなく、不法に捨てられたもののように見える。躊躇いはあったが、少し疲れたので腰を掛けることにした。ここなら橋を通る車からはよく見えるし、花子も私を見つけることができるはずだ。今夜の天気は曇りだ。雨は降らない予報だが、星が見えない。周囲を見渡し、誰もいないことを確認してから目を閉じた。

境界線の風景

「今日も頑張ろう。一日の始まりだ」 六月の朝、薄曇りの空の下、長谷川徹は役場へ向かう車を運転していた。窓を開けると、山々の緑の匂いと湿った風が入り込み、少し肌寒さを感じる。田舎町の狭い道路は、今朝も静かで、時折すれ違う軽トラックのドライバーが軽く手を挙げて挨拶をしていく。 徹は29歳。大学卒業後にUターンし、地元の小さな町役場に就職して7年目になる。所属は総務課。町の予算管理や各種イベントの企画、地元企業との調整が主な仕事だ。役場の仕事は堅実で、地元では安定した職業として評価されているが、徹自身はその仕事に特別な熱意を抱いているわけではなかった。 「おはようございます。」 役場の玄関をくぐると、古びた庁舎内に挨拶の声が響く。徹はデスクに座り、今日の予定を確認する。最初の仕事は、地元商工会との打ち合わせだった。 「観光パンフレットの制作、どう進めましょうかねえ。」 商工会の会長である古川が、資料をめくりながら話しかけてくる。彼は徹より30歳以上年上だが、妙に親しげで、半ば雑談のように話を進めるのが特徴だった。 「以前のデザインを少し変更して、新しいイベント情報を加えれば十分ではないでしょうか。」 徹は淡々と答えた。古川は頷きながらも、少し不満そうな顔を見せる。 「まあ、それもそうだけどね。もっと人を引きつけるアイデアがあればいいんだけどな。」 アイデア。徹の胸に、わずかな重みが生じる。その言葉に反応する自分を、彼は心のどこかで冷ややかに眺めていた。昼休み、徹は庁舎の裏手にある小さな公園で弁当を広げた。近くには、小川が流れており、木々のざわめきが心地よい音を立てている。 「こんな場所で生きていくことが、本当に正しいのだろうか。」 ぼんやりと空を見上げながら、徹はそんなことを考えた。大学時代の友人たちは、都会で仕事をし、それぞれのキャリアを積み重ねている。彼らのSNSには、煌びやかな生活の一端が写し出されていた。それに比べ、自分はこの小さな町で何を成し遂げているのだろうか。 町の人々の生活を支える役場の仕事。それは間違いなく意義のあるものだ。だが、その意義が自分自身にどれだけの意味を持つのか、徹には確信が持てなかった。その日の午後、徹は久しぶりに外回りに出ることになった。地元の農家を訪問し、農業支援金の手続きを確認するためだ。車を走らせると、視界には青々とした田んぼと遠くにそびえる山々が広がる。 訪問先の農家で、年老いた男性が迎えてくれた。彼の顔は深く刻まれた皺に覆われており、その手は土に染まっている。 「支援金の申請、いつも手続きが難しくてなあ。もう少し簡単にしてくれると助かるんだが。」 徹は説明しながら、老いた男性の目に映る疲労と、それでも消えない光を見つめた。その光は、毎日同じ景色を見ながら、同じ作業を繰り返してきた人間にしか持てないものだった。 「俺たちの仕事なんて、そんなに大したもんじゃないよ。ただ、この田んぼがきれいに見えるうちは、何とかやっていけると思ってるんだ。」 帰り道、徹は窓を開けて風を感じながら、その言葉を反芻していた。その田んぼのきれいさが、誰かにとってどれほど重要なものなのか。それを支えるために自分がいるのだとしたら、それは価値のあることではないか。 その夜、家に帰った徹は机に向かい、町の観光パンフレットのデザイン案を考え始めた。これまでの無難な構成ではなく、もっと大胆で、人の目を引くものにしてみよう。自分がこの町で見た景色の美しさ、それが他の人にも伝わるようなものを――。 机の上のノートにペンを走らせながら、彼はふと思った。自分がどんな形でこの町に関わり、何を残していけるのか。それを模索することが、今の自分にできる精一杯の答えなのかもしれない、と。 「まあ、焦らずやってみるか。」 小さな声でそう呟くと、窓の外から涼しい風が吹き込み、彼の肩をそっと撫でていった。

廃墟の住人

「儚い気持ちで胸がいっぱいだ」 風が吹き抜けるたびに、崩れた窓枠がかすかに揺れた。その音を合図に、廃墟の隅で眠っていたシロは目を覚ました。足元には、昨夜拾ってきた毛布が敷かれている。彼の細長い耳がぴくりと動き、鼻先で朝の空気を嗅ぐ。湿気を含んだ空気に少しだけ埃の匂いが混じる。 シロは古びた木製の床を軽やかに歩きながら、大きな欠けた窓から外の景色を眺めた。ここはかつて人間たちが暮らしていた場所だ。壁のペンキは剥がれ落ち、草が建物の隙間から生い茂っている。だが、シロにとっては居心地の良い「家」だった。 陽が昇ると、シロはいつものように廃墟の中を巡回し始めた。一つひとつの部屋を通り過ぎ、棚の裏や崩れかけた階段の隙間を確認する。それはもう習慣となった行動で、廃墟という広大なテリトリーを守るための儀式のようなものだった。今日も異常はなさそうだ、と確認すると、彼は1階のホールへ降りていった。かつては大広間だったその空間には、今や誰もいない。床に散らばる破れた新聞紙や錆びた椅子の残骸が、時間の流れを物語っている。シロは中央の場所に腰を下ろし、ふと目を細めた。陽の光が天井の穴から漏れ、その光が彼の白い毛並みを柔らかく照らしている。 昼になると、シロは廃墟を出て、近くの森へ向かう。目的は昼食だ。森には野生の果実が実り、小さな獲物もいる。だが、シロが食べるのは主に木の根元に落ちた果物や、近くの小川で捕る魚だった。 「よし、今日も運がいい。」 そう心の中で呟きながら、シロは木の実を前足で転がし、慎重にかじった。甘みが口に広がると、彼は小さく満足げにうなずいた。食べ終えると、しばらく川辺で水を飲んだ。冷たい水が喉を通る感覚が心地よかった。周囲には他の動物たちがいる気配もあったが、彼らとシロの間には暗黙のルールがあった。お互いに干渉しない。それだけで、十分に平和が保たれるのだ。 夕方、廃墟に戻ると、シロは自分の「巣」の中を整え始めた。毛布をもう少し温かくするため、森で拾ってきた葉を上にかける。彼の巣の中には、小さな骨の破片や、拾い集めた壊れた玩具が並んでいる。それらは彼の唯一の「宝物」だった。その中でも、特に大事にしているのは、古びた人間の写真だった。写真には、笑顔の子どもと犬が映っている。その犬は彼とは違う毛色をしていたが、どこか懐かしい雰囲気があった。この写真を見るたびに、シロは胸の奥に温かい感覚を覚える。 「この廃墟にも、かつてこんな日々があったんだろうな。」 シロは写真をそっと元の場所に戻し、静かに横になった。夜になると、廃墟はさらに静かになる。風の音と、時折聞こえるフクロウの鳴き声が、シロにとっての子守唄だった。彼は目を閉じながら、今日の出来事を振り返る。何も変わらない日々。それでも、彼にとっては十分だった。誰も来ないこの場所で、ただひっそりと、静かに生きていくこと。それがシロの「日常」だった。 「おやすみ、廃墟。」 そう呟くと、シロは小さく丸まり、深い眠りについた。月の光が廃墟全体を照らし、その中で彼の白い体が穏やかに息づいていた。

ケーキと迷彩と青春と

「前へぇー進めッ!!!」 夏の朝、灼熱の太陽の下。迷彩服に身を包み、巨大なリュックを背負った19歳の三浦芽衣は、砂埃が舞う訓練場を必死に走っていた。 「くそっ……どうしてこうなった……」 息を切らしながら走り続ける芽衣の脳裏には、かつての夢が浮かんでいた。 「お前、何になるのが夢なんだ?」 高校3年の進路相談。担任の先生にそう聞かれたとき、芽衣は自信満々にこう答えた。 「ケーキ屋さんです!自分でお店を持つのが夢なんです!」 クッキーやケーキを作るのが大好きで、休日には家族に手作りスイーツを振る舞っていた芽衣。その笑顔が見たくて、彼女はその道を目指すと決めていたのだ。だが、現実は甘くなかった。 「専門学校の学費?……お母さん、今そんな余裕ないのよ。」 家庭の事情で夢を諦めざるを得なかった芽衣。そんなとき、ふと目にした自衛隊のポスターが運命を変えた。 「え、自衛隊?めちゃくちゃ安定してるじゃん。」 ポスターには迷彩服を着た隊員がキラキラした笑顔で「未来を守る」などと書かれていた。 「これだ……私の未来、ここで守られるじゃん」 そしてその数ヶ月後、芽衣はケーキのデコレーション用ヘラではなく、サバイバルナイフを握ることになったのだった。 「もう少しスピード上げろ、三浦!ケーキを運んでるんじゃないぞ!」 訓練教官の怒声が響く。芽衣は顔を真っ赤にしながら叫び返した。 「ケーキはこんなに重たくないですッ!」 周囲の同期たちが吹き出す中、芽衣は地面を蹴り続けた。体力訓練、格闘術、銃の取り扱い。毎日続く厳しい訓練に、芽衣は何度も心が折れそうになった。 「ケーキ屋さんって、もっと優しい世界だったんじゃないの……?」 だが、彼女には負けられない理由があった。それは、訓練所の食堂の存在だった。 「芽衣ちゃん、また新しいスイーツ出してくれたんだ!」 同期の坂口が、芽衣が作った「訓練所特製スイーツ」を手に喜んでいる。そう、芽衣は訓練の合間にこっそり厨房を借り、ケーキ作りを続けていたのだ。最初は冷やしゼリーから始め、チョコレートケーキ、さらには自衛隊のロゴを模したクッキーまで作るようになった。 「お前、なんでこんな本格的なケーキ作れるんだよ?」 ある日、坂口が不思議そうに尋ねた。芽衣は得意げに答える。 「ケーキ作りは私の夢だからね!」 「いや、普通その夢のために自衛隊入らないだろ!」 突っ込む坂口に芽衣は肩をすくめた。 「ま、人生ってそんなもんじゃない?」 そんな芽衣の作るスイーツは、瞬く間に訓練所で評判になり、ついには教官たちまで「三浦の作るプリンがうまい」と噂するほどに。だが、それを良しとしない人物が一人いた。鬼教官・大石である。 「三浦!貴様、自衛隊をなんだと思っている!」 「国を守る場所です!」 「ならば菓子作りはなんだ!」 「心を守る場所です!」 「誰がそんな名言みたいなことを言えと言った!」 そんな大石の厳しい叱責にも関わらず、芽衣のスイーツ作りは止まらなかった。そして迎えた訓練修了式の日。芽衣は仲間たちと共に迷彩服姿で式典に臨んだ。その後の懇親会では、芽衣が作ったケーキが振る舞われた。 「これ、三浦が作ったのか?本当にすごいな!」 「まるで高級ホテルのケーキみたいだよ!」 次々に聞こえてくる称賛の声に、芽衣は笑みを浮かべた。彼女の手の中には、一つの小さなクッキーがあった。それには「未来を守る」と文字が書かれている。 「自衛隊で未来を守るのもいいけど、私の未来はやっぱりケーキ屋さんかな。」 芽衣はその言葉を胸に、今日もまた迷彩服を着て走り出した。ケーキも国も守れる女。それが三浦芽衣だ。

終わりなき日々の始まり

「何も変わらない毎日だ」 朝、陽が昇る前の静かな時間帯。42歳の高橋秀明は、コンビニで買ったコーヒーを片手に工事現場へと向かう軽トラックを運転していた。助手席には使い込まれたヘルメットと工具袋、そして古びた釣り竿が無造作に置かれている。 秀明はこの釣り竿を常に車に積んでいる。いつでも、どこでも――仕事が早く終われば、そのまま海に向かうためだ。釣り場に立つときだけ、彼の中で何かが静かに整うような気がしていた。 現場に着くと、すでに数人の作業員が準備を始めていた。皆、黙々と機材をチェックしたり、ブルーシートを敷いたりしている。秀明もその一員としてヘルメットをかぶり、安全帯を装着した。 「おはようございます、リーダー。」 若手の作業員が声をかけてきた。秀明は軽く頷くと、指示を簡潔に伝える。今日の仕事は、建設中のビルの基礎部分のコンクリート打設だ。時間との勝負になる作業だが、秀明にとってはいつものことだった。 作業が進む中、秀明はふと空を見上げた。空は青く澄んでいて、遠くには白い雲が流れている。その一瞬の景色に、彼はなんとも言えない懐かしさを覚えた。 釣りを始めたのは、10年以上前のことだった。当時、秀明は仕事と家庭の板挟みに苦しんでいた。家族と過ごす時間を減らし、現場での責任ばかりが増えていく日々。そんなとき、同僚に誘われて初めて釣り竿を握った。 その日、海に立つ彼の心は初めて軽くなった気がした。波の音と風の匂い、そして静かに糸を垂らすひととき――それは、秀明にとって唯一の「無駄な時間」だった。仕事でも家庭でもない、自分だけの時間。それが彼にとっての釣りだった。 昼休憩になり、秀明は現場の隅で弁当を広げた。若い作業員たちはスマートフォンをいじりながら談笑しているが、秀明は遠くの空を見つめていた。 「リーダー、最近どうっすか?釣れてます?」 隣に座った若手の一人が尋ねた。 「まあまあだな。先週、40センチの黒鯛が釣れたよ。」 そう答えると、若手は目を輝かせた。 「マジっすか!それって結構デカいんじゃないですか?」 「まあな。でも、釣りってのは大物を釣るだけが楽しいわけじゃないんだよ。」 そう言って、秀明は静かに笑った。その言葉の意味を、若手がどれだけ理解したのかはわからない。だが、秀明にとって釣りは、大物を狙うためだけのものではなかった。 夕方、作業が無事に終わると、秀明は軽トラックに乗り込んだ。今日も海に行ける時間はなさそうだが、釣り竿が車にあるだけで、どこか心が落ち着いた。 家に帰ると、妻が夕食を用意して待っていた。食卓には彼が釣った魚を使った煮付けが並んでいる。 「今日も無事だったの?」 妻がそう聞くと、秀明は「まあな」と短く答えた。そのやり取りは、何年も変わらない彼らの日常だ。 夕食後、秀明は自分の部屋で釣りの道具を手入れしながら、明日もまた同じ日々が続くことを思った。それでも、その日々の中にほんの少しの余白があれば――波の音と糸の先にある静けさを想像できるなら、それで十分だと感じていた。 夜の静寂の中で、彼は道具箱の中のルアーを一つ手に取り、静かに微笑んだ。それは、彼の中で確かに存在する小さな自由の象徴だった。