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「きっとこの先に何かがあるはずなんだ」  真夏の午後、アスファルトの道が陽炎に揺れていた。道路脇の草が風にざわめく中、28歳の由紀はリュックサックを背負い、ひとりで歩いていた。背中に張り付く汗が不快だったが、手元の地図を頼りに足を進める。  由紀は2週間前、会社を辞めたばかりだった。理由は単純だ。「このまま続けていても、自分が何のために働いているのかわからない」という漠然とした違和感が彼女の中で膨らんでいたからだ。辞めてからは友人たちに心配されたが、由紀には何となく考えていることがあった。旅に出ること。それも、知らない土地を訪れ、見知らぬ道を歩くこと。 「知らない場所に行けば、何か変わるかもしれない。」  彼女の胸にあったのは、そんな不確かな希望だけだった。今日の目的地は、地図にもほとんど載っていない山奥の集落だ。ネットで見つけた記事には、「ひっそりとした隠れ里」とだけ書かれていた。人里離れたその場所に、昔ながらの暮らしが今も残っているらしい。舗装が途切れた道を歩いていると、ふいに自転車に乗った年配の男性が現れた。由紀が道を尋ねると、彼は親切に教えてくれた。 「この道を真っ直ぐ行ったら、橋が見える。その先を右に曲がると集落に着くよ。まあ、車じゃないと大変だけどね。」 「大丈夫です。歩きで来たので。」  その答えに、男性は少し驚いた顔をしたが、特に何も言わず去っていった。道のりは予想以上に厳しかった。午後3時を過ぎた頃には、太陽の熱が少し和らいでいたが、坂道を歩く足は重くなるばかりだった。 「あと少し……」  汗を拭いながら橋を渡り、教えられた通りに右に曲がると、視界がぱっと開けた。そこには、小さな家々が点在する集落が広がっていた。畑では年配の女性たちが作業をしており、犬が一匹、日陰で寝転がっている。のどかな風景に、由紀は足を止めて息をついた。集落の中心には、古びた木造の公民館があった。扉を叩くと、中から白髪交じりの中年の女性が顔を出した。 「こんにちは。この村にちょっと興味があって、歩いてきました。」  女性は目を丸くしたが、すぐににこやかに微笑んだ。 「まあ、それは珍しい。こんなところに誰かが来るなんて。」  話を聞くと、この村には10世帯ほどしか住んでおらず、若い人はほとんどいないという。農業を営む人が多く、最近は外部との関わりも少なくなったらしい。 「夕方になると、みんな公民館に集まって話をするのよ。よかったら一緒にどう?」 由紀は迷うことなく頷いた。夕方、集落の住人たちが三々五々と集まり始めた。女性、男性、子どもたち。彼らはそれぞれ、自分の収穫した野菜や作った漬物を持ち寄ってきた。由紀は最初、少し緊張していたが、住人たちの親しげな笑顔にすぐに溶け込んだ。彼女の話に耳を傾ける人、村の歴史を語る人、冗談を飛ばす人――そこには、都会では感じられなかった温かさがあった。 「ここに来てよかった。」  彼女の胸の中に、小さな安心感が広がった。  夜になり、由紀は村人に教えてもらった空き家で休むことになった。古びた家だったが、どこか落ち着く空間だった。窓から見える満天の星空に、彼女はただ見入った。 「私の探していたものって、これなのかな。」  都会の便利さや仕事の忙しさから離れた場所で、自分自身を感じること。それが今の由紀にとって必要なことのように思えた。  翌朝、村人たちに別れを告げ、由紀はまた歩き始めた。見知らぬ道はまだ続く。その先に何があるのかはわからない。それでも、足を進めるごとに胸が少しずつ軽くなっていくのを感じた。 「この道の先で、きっと何か見つけられる。」  そう信じながら、彼女は新しい一歩を踏み出していった。
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白い星が降る夜に

12月24日、クリスマスイブ。都内の繁華街はカラフルなイルミネーションで輝き、カップルや家族連れの笑い声が絶えない。そんな中、一人歩く花村絵里(30歳)の表情は、どこか浮かないものだった。華やかな街並みに反して、彼女の心は灰色に曇っていた。絵里の手には小さな紙袋が握られていた。袋の中には、彼女が焼いたクリスマスクッキーと、ラッピングされた白い封筒。それを届けるため、彼女は繁華街から少し外れた静かな住宅地に向かっていた。行き先は、小さな教会の片隅にある墓地だ。 初恋の人との思い出。絵里の初恋の相手、遼(りょう)は高校時代の同級生だった。優しくて、少しシャイで、勉強は苦手だったが、音楽が好きでギターを弾く彼の姿に絵里は魅了された。放課後の音楽室、二人だけの時間。遼はいつも言っていた。 「俺、いつかお前のために曲を書きたいんだ。」 その夢が叶うことはなかった。大学受験を目前に控えた冬の日、遼は交通事故で突然この世を去った。絵里にとって、それは人生の一部が剥ぎ取られるような喪失感だった。彼女は遼が書きかけていた楽譜の一枚を今も大切に持ち歩いている。遼の死から12年が経った今でも、絵里は毎年クリスマスになると、彼の墓に手作りのクッキーと手紙を届けていた。それが、遼との思い出を繋ぎ止める唯一の手段だった。教会の墓地は、クリスマスイブとは思えないほど静かだった。雪がちらつき始め、冷たい風がコートの隙間から入り込む。絵里は遼の墓石の前に立ち、小さく息を吐いた。 「遼、今年も来たよ。」 そう呟いて、紙袋からクッキーと手紙を取り出し、墓石の前にそっと置いた。雪がクッキーに降り積もり、寒さが手紙の封筒を硬くする。彼女は手を合わせ、遼との思い出を静かに思い出していた。 「私、30歳になったよ。遼がいなくなってから、たくさんのことがあったけど、なんだか全部、心に穴が空いたままでね。きっと、遼がいればもっと楽しい人生だったんだろうなって思うんだ。」 そう語る声は震えていた。心の奥底にしまい込んでいた感情が、彼女の中で静かに波打ち始める。 偶然の再会。そのとき、雪の降る静寂を破るように背後から声がした。 「花村さん……?」 振り向くと、そこに立っていたのは中学校の同級生だった田嶋優也だった。彼は絵里と遼の共通の友人で、絵里が遼と付き合うきっかけを作ってくれた人物でもあった。 「田嶋くん……久しぶりだね。」 彼は手に花束を持っていた。 「たまにここに来てたけど、花村さんに会うのは初めてだね。クリスマスに遼のところに来るなんて、君らしいよ。」 二人は墓の前で少しの間、昔話を交わした。遼の明るさや、不器用な優しさ、そして彼が皆に愛された理由について。優也もまた、遼の死を悼みながらも前を向いて生きてきた一人だった。 「花村さん、ずっと遼のことを思ってたんだね。」 その言葉に絵里は少し驚き、笑って答えた。 「なんだかね、遼がいなかったら、今の私じゃない気がするの。忘れたくても忘れられないし、忘れたくもない。」 優也は優しく頷いた。 「俺も同じだよ。でも、遼はきっと、俺たちが幸せに生きることを望んでると思う。絵里が前に進めるように。」 その言葉に、絵里の目に涙が浮かんだ。彼女は墓石を見つめながら、心の中で遼に語りかけた。 「ありがとう、遼。私、もう少しだけ頑張ってみるね。」 教会を出る頃には雪が本格的に降り始めていた。絵里と優也は並んで歩きながら、これからのことを少しだけ話した。優也は、「またどこかで会おう」と笑い、絵里はそれに小さく頷いた。その夜、絵里の心には少しだけ温かさが灯った。遼を想う気持ちは消えることはないだろう。しかし、彼との思い出は彼女を縛る鎖ではなく、生きる力を与えてくれる灯火になりつつあった。空から降る雪は、まるで白い星のように街を包み込み、彼女の新たな一歩を祝福しているようだった。絵里はその光景を見上げながら、小さく微笑んだ。

灰色の呼吸

「今夜も冷えるな」 夜が更け、街は一瞬の静寂を迎えようとしていた。24歳の圭吾は、橋の下で毛布を体に巻きつけながら、眠りにつく準備をしていた。春とはいえ、夜風は肌寒く、毛布の中に体を丸めても、アスファルトの冷たさが背中に伝わってくる。 圭吾がこの橋の下にたどり着いたのは、三ヶ月前のことだ。それまでは派遣の倉庫作業員として働きながら、小さなアパートで暮らしていた。だが、契約終了の知らせと同時に貯金は尽き、家賃を払えなくなった。親との縁はとうに切れている。友人と呼べる存在も、いつの間にか連絡が途絶えていた。 「生きているだけでも、まあ十分かもしれない――」 そんなふうに考えることで、なんとか自分を納得させてきた。だが、その夜はどうにも心が落ち着かなかった。近くの公園で拾ってきた小さな新聞紙が目に留まり、彼はそれを広げた。 そこには、若者の起業成功物語が特集されていた。24歳のベンチャー経営者が、「この年齢だからこそ挑戦できる」と語る記事が目に入る。 「……24歳、か。」 圭吾は鼻で笑った。自分と同じ年齢の人間が、こうも違う人生を歩んでいることに、苛立ちと虚しさが混ざり合う。かつての自分も、こうした「成功」に憧れていた時期があった。大学を中退した直後、何度も事業プランを書き、融資を申し込んだが、すべて門前払いされた。そこから道がどんどん狭まっていき、今に至る。 翌朝、早くから街の喧騒が戻ってきた。圭吾は橋の下から這い出し、近くの公園へ向かった。ベンチに座り、ぼんやりと行き交う人々を眺める。スーツ姿の会社員、子どもを連れた母親、笑い合う若者たち――どの顔も、圭吾には遠い存在に思えた。 「ここに座っていても、何も変わらないな……」 そう呟きながらも、どこかへ行く気力は湧かなかった。立ち上がる代わりに、鞄から紙とペンを取り出す。これは、彼が唯一残してきた癖だった。紙の上に、なんでもない言葉を書き連ねる。 「橋の下の寒さは、家を持つ人にはわからないだろう。」 「食べ物を手に入れる方法は、無数にあると思っていた。」 「自分の影を追いかけるのは、逃げ場がないときだけだ。」 圭吾は書きながら、どこかでこれが誰かの目に触れることを期待しているのかもしれないと思った。 その日の昼過ぎ、公園のベンチで眠り込んでいた圭吾は、不意に声をかけられて目を覚ました。 「これ、落としましたよ。」 見ると、若い女性が彼の紙を拾い上げて差し出していた。黒縁の眼鏡をかけた彼女は、どこか知的で、控えめな雰囲気を漂わせている。 「ありがとう……」 圭吾が受け取ると、彼女は少し迷うようにしながら言った。 「この文章、書いたのはあなたですか?」 「まあ、そうだけど。」 「すごく、心に響く言葉だと思います。」 その一言に、圭吾の胸の奥で何かがかすかに震えた。それは、ずっと誰にも認められなかった自分の存在が、ようやく少しだけ肯定されたような感覚だった。 それから数日、彼女は公園に何度か姿を現した。名前は佳奈子。出版社に勤めていると言った。彼女は圭吾の書いた言葉に興味を持ち、もっと見せてほしいと頼んできた。 「これを、世に出す手伝いをさせてください。」 佳奈子のその言葉は、圭吾にとってあまりに現実味がなく、最初は冗談だと思った。しかし、彼女の目は真剣だった。 「……俺みたいな人間の言葉なんて、誰も読まないよ。」 「そんなことないです。この言葉には、真実がある。」 圭吾はしばらく黙り込んだが、最後には小さく頷いた。 佳奈子の手助けで、圭吾の書いた文章が小さな文芸誌に掲載されることになった。その反響は決して大きくはなかったが、確かに読んだ人々の心に何かを残した。 橋の下に戻った夜、圭吾は満天の星空を見上げていた。自分の置かれた状況は変わらないが、胸の中にはわずかに灯る希望があった。 「灰色の空でも、少しずつ色が見えてくるのかもしれないな。」 彼は独り言を呟き、再び紙に言葉を書き始めた。その筆跡は、かつてよりも少しだけ力強くなっていた。

静かなる荒川で起きた殺人事件 第6話

「せっかくの夏の夜だというのに、私の心は乾いたままよ」 花子は不機嫌そうに呟いた。その口調には、私に対する不満が色濃く滲み出ていた。花子の目はどこか遠くを見つめ、何かを期待しているようだったが、その期待が叶うことはない。 「今の彼氏とはうまくいってないの?」 花子は一瞬、驚いたような顔をした。確か梅雨が明ける頃に、新しい彼氏ができたと、嬉しそうに話していたはずだ。そのきっかけは花子自身が主催した飲み会だったと思う。花子は人間関係を巧みに築き、交友の輪を広げる才能に長けている。出会いの数がとにかく多く、男を探す場に困ることがない。 「別に不満はないけどね。ピンとこないというか、魅力に欠けるというか。どうしても心の底から愛せないのよ」 「浮気はよくないよ」 花子はいつも見切りが早い。場当たり的な気まぐれで決断しているようにも見えるのだが、僅かながらに冷静な判断が宿っているかのようにも思える。おそらく彼女は、自身の若さと行動力さえあれば、男女の関係において困ることなどないと確信しているのだろう。彼女は決して、いわゆるチヤホヤされるようなタイプではない。しかし私と異なり、男たちの懐に自然に入り込む術を本能的に心得ている。 「実はね。私は今、3人の男と付き合っているの」 花子は少しバツが悪そうな顔をした。 「どういうことよ」 以前にも似たようなことがあった。 「私には本命がいるわけじゃないのよ。時間とともに私の気持ちが変わるかもしれないけど、今のところはさっぱり。惰性で関係を続けているのよね。何もかもが面倒くさいというか。夜の営みですら、心ここにあらずって感じ。多少のサービスはしてあげるけどね。私は魂が抜けた人形なの」 花子は男が途切れない。色欲が強い方ではあるが、刺激を求めているわけではなく、恋にのめり込みたいわけでもない。花子は弱者である自分を養えるだけの十分な収入があり、自分を責め立てない大樹のような男を欲している。そして何より、自身の劣等感を刺激しない、何らかの致命的な欠点のある男を探している。 「私にはお金持ちになりたいという気持ちはないの。ある程度の収入があればそれで満足なの。結婚してもアルバイトで多少は働くつもりよ。私は働くこと自体が好きではないけどね。そこは我慢するわ。ママにこの話をすると、それだと今までの生活水準を維持できないって言うのよ。だから私は稼ぎのいい男を探しているの」 花子は投げやりな口調で話を続けた。 「うちのパパは高校を卒業した後、大企業の工場で働き始めたの。今は総務部の副部長を務めていて、東大や京大を出た部下がたくさんいるのだそうよ。もちろん、自分の能力が部下よりも上だとは思ってないわ。私と同じくらい算数が苦手だしね。お世話係のような付き人がいて、仕事のほとんどはその人に一任されているらしいの。肩身が狭いといつも嘆いているわ。でもそのおかげで、お母さんがパートでも、住んでいる場所が中野区でも、それなりにいい暮らしができたのよ」 花子は、頭の良い人間に対して好意を抱かない。相手の方が格上だと察すると、まるで自分を隠すように距離を置いてしまう。その反応の背後には、彼女の中に潜む微妙なコンプレックスが影を落としている。知性は花子にとって重い鎖となり、心の奥に引け目を感じさせる要因になっている。花子は新卒で入社した会社をわずか一年足らずで辞めてしまった。人材派遣サービス業の営業職として、花子は多くの人とのやり取りを同時にこなす日々に身を置いていた。その中で、自分の限界を痛感する瞬間が訪れたのだ。頭の中で複雑に絡み合う情報や人間関係の中で、花子の頭はそれらを処理しきることができなかった。そして徐々に自らの力不足を認識し、その思いは次第に強い劣等感へと変わっていった。 花子がどのような男と付き合おうが構わないし、さしたる興味もない。今の彼らも、秋の訪れとともに似たような別の誰かに取って代わられるのだろう。季節が変わるたびに、花子の無機質な恋心もまた移り変わっていくのだ。 「守子ちゃんは順調そうね。私は太郎のことが好きになれないけどね。今でもあいつに声を掛けなければよかったと後悔しているわ。あの日の休憩室には、他に丁度いい男が居なかったのよ。運が悪かったわね」 私と太郎は花子が主催した飲み会で知り合った。急遽参加できなくなった男の代わりに、休憩室でコーヒーを飲んでいた太郎が呼ばれたのだ。太郎は花子が好むタイプにはほど遠く、どこか頭の堅い印象を漂わせていた。どの方面から見ても花子とは噛み合わないように思えた。太郎はあまり綺麗とは言えない雑然とした店内に珍しさを感じたのか、周囲を見回しながら、落ち着かない様子を見せていた。まるで色を失った風景の中にぽつんと佇む花のようで、周囲との調和を欠いているかのようだった。 「最近はあまり会っていないのよ。引け目を感じるようになってしまったの。太郎は私と違って、頭が良いし仕事もできる。いつも私の話を聞いてくれて、私の気持ちにも寄り添ってくれるけれど、それが逆に辛いのよ。私は太郎に相応しい女ではないの」 たこ焼きを完食した花子は、何本目か分からない缶チューハイの残りを一息に飲み干した。花子の視線はどこか遠くへと向かい、心の奥深くに秘められた負の感情が、静かに揺れているように感じられた。 「あいつは私たちのことを見下していると思う」 花子は横を向いたまま低い声で言った。 「そんなことは絶対にないわ。親御さんは私のことをあまり良く思っていないみたいだけどね。太郎は他人を見下して優越感に浸るような悲しい人間ではないのよ。私のことを大切に思ってくれているわ」 花子は太郎のことが好きではなかった。太郎はその立ち振る舞いから、育ちの良さが一目瞭然だった。付き合い始めた後に知ったのだが、太郎はそれなりに名のある国立大学を卒業している。本来、私とは交わることのない世界の住人だ。太郎が私に興味を持ってくれたことが、今もなお不思議でならない。 「俺と一緒に住まないかって言われているの。月末までに今のアパートを退去しなきゃいけないことを伝えたら、丁度いいタイミングだって」 私には貯金がなかった。当然のように家賃を滞納し、その果てに待っていたのは、冷徹に下された強制退去の通告だった。その紙切れ一枚が、私の居場所を容赦なく奪い去る。それまで築いてきた小さな世界が突然なくなってしまう。薄い壁越しに隣人の生活音が響く狭い部屋も、いつしか私の身体に馴染んでいたその空間も、すべてが私の手の中から滑り落ちていった。 「太郎の家は1LDKの間取りなの。二人で住むにはちょっと窮屈かもしれないけど、まあ、ストレスなく暮らしていけるくらいの広さはあるかな。私も将来的には一緒に住みたいって思っていたのよね。私は太郎のことが好きだから。太郎だって私のことを心の底から愛してくれているからこそ、そう言ってくれたのだと思う」 少し苦笑いを浮かべながら、私は話し続けた。 「相思相愛で幸せな気持ちでいっぱいなのは確かよ。だけどね、今こんな状態で一緒になるべきではないと思うの」 私には妙な拘りがあった。 「一緒に住んでしまえばいいじゃない。どうせタダで住まわせてもらえるのに」 太郎は会社が借り上げた社宅に住んでいる。太郎が何かを手に入れるために苦労する姿など到底想像できない。太郎の生活は、あたかも見えないレールの上を滑らかに進んでいるかのようで、そこに困窮の影など微塵も感じられなかった。「仕事がつまらない」が口癖になってはいるが、私の望んでいるものがそこにはすべてあったのだ。 「無職になって、家賃も払えなくなって、どうしようもない状態なのよ。惨めな思いでいっぱい。私はどうしても東京で自立して生きたいのよ。誰の力も借りたくないの」 もしも私がこの状況で太郎の家に転がり込むようなことがあれば、周囲の誰もが、そして何よりも私自身が、私を「ダメな人間」と断じるだろう。その視線、その評価、その冷ややかな呟きに包まれながら生活することなど、到底耐えられる気がしない。そんな屈辱にまみれた暮らしを送るくらいなら、路上で過ごす方がまだ誇りを保てるように思えた。ここだけは譲れないのだ。どんなに追い詰められても、この一点だけは、私の自我の中にある最後の守るべきボーダーラインとして残り続けるのだ。 「守子ちゃんは変なところで頑固よね」 親の惜しみない援助を受けながら、軽やかに日々を過ごしている花子には、私が抱えているこの漠然とした不安や、焦燥感の正体を理解することなど到底できはしないだろう。再就職が叶ったとしても、その先に待つのは、決して楽ではない厳しい生活だ。新しい服を買いそろえる余裕など夢のまた夢で、太郎とのデートでは、いつも彼が財布を開くことになる。それを思うたび、何とも言えない劣等感が胸に広がる。 目の前に広がる荒川。この川を越えた先には、少しは楽に呼吸ができるような暮らしがあるのかもしれない。けれど、私は東京を離れることだけはどうしても受け入れられない。東京という空間が私に何を与え、何を奪おうとも、私はその中で生きたいと思っている。どんなに治安が悪かろうと、駅からどれほど遠かろうと、東京都内に住み続けることだけが、私が自分自身を敗者だと認めないための、ただ一つの証明であり、唯一無二の拠り所なのだ。

夜の灯

「今夜は星がよく見える」 車内は、わずかな灯りでほのかに照らされていた。40歳の奈々子は、助手席をリクライニングさせ、毛布にくるまりながら外を見上げていた。窓越しに見えるのは、星が瞬く夜空。どこかの郊外の駐車場。エンジンを切った車内はひっそりとしていて、聞こえるのは風の音だけだ。 奈々子は、ここを「家」と呼んでいた。家といっても固定の場所ではない。彼女の家は、黒い軽バンの中だ。狭い車内には、寝具や簡易調理器具、小さな瞑想マットが整然と収まっている。それらは、必要最小限のものでありながら、奈々子の暮らしを形作る大切な道具だった。 以前の彼女は、都内でデザイン会社に勤めていた。締め切りに追われる毎日、オフィスでの長時間労働、そして窓から見えるビル群の夜景――それが当たり前だった。しかし、ある日、突然気づいた。 「私、この生活が心から好きじゃない。」 仕事を辞め、住んでいた部屋を引き払い、奈々子はこの軽バンを購入した。それからの生活は予想以上に自由で、少しの不安と大きな開放感が混ざり合ったものだった。 今日は静かな湖の近くに車を停めている。昼間は近くの道の駅で軽いアルバイトをし、夕方にはスーパーで買った野菜とインスタントスープで簡単な夕食を済ませた。今は食後の瞑想の時間。 奈々子はシートに背を預け、静かに目を閉じた。呼吸に意識を集中し、胸に満ちる空気の流れを感じる。車内の狭さや世間の雑音は、瞑想の中では全てが消え去り、ただ静けさが残る。 「今日もいい一日だった。」 心の中でそう呟くと、不思議と全身が軽くなる気がした。自分の価値を誰かに証明しようとした日々とは異なり、今はただ「いる」ことが大切だと感じられる。 瞑想を終えると、奈々子は後部座席に置いた日記帳を手に取った。最近では、日々の出来事を簡単に記録することが習慣になっている。今日の欄にはこんな言葉を書き込んだ。 「湖の風が冷たかった。でも、空がとても広かった。」 それだけで十分だった。特別なことがなくても、自然と共に過ごす時間が彼女にとって何よりの財産だった。 夜が更け、奈々子は毛布を肩まで引き上げた。車内の狭い空間は、暖かな巣のようだった。日々の小さな工夫がこの空間を快適にしている。毛布の柔らかさ、足元に置いたカーペット、フロントガラスに張った断熱シート――どれも彼女にとっての「家」を形作る大事な要素だ。 眠る前、奈々子はもう一度目を閉じた。これからのことを考えるのは嫌いではないが、今の彼女にとって最も大切なのは「今ここにいる」という感覚だ。それがあれば、明日がどんな日でも大丈夫だと思えた。 「おやすみなさい、世界。」 そう静かに呟いて、奈々子は毛布に包まれたまま深い眠りについた。夜空の星々が静かに彼女を見守るように輝いていた。その中で軽バンという小さな宇宙の中で、奈々子の穏やかな一日はゆっくりと終わりを迎えていた。

残響の底で

「ねえ、麻衣ちゃん。今日のセトリ、大丈夫?」 その夜も、麻衣は狭いライブハウスの控室にいた。壁際のソファに浅く腰掛け、煙草を吸いながらぼんやりと天井を眺めている。天井の隅に染み付いた汗とタバコの匂いが、今日も変わらずそこにあった。隣でギターの純也が確認する。麻衣は煙草をもみ消し、軽く頷くだけだった。 「大丈夫よ。いつも通り。」 その返事に、純也は「そうか」と小さく呟くと、またギターの弦を爪弾き始めた。麻衣がボーカルを務めるバンド「シヴァ」は、結成して5年目になる。彼女の低く濁った歌声と、暗い詞の世界観が特徴で、一部の熱狂的なファンには支持されていた。だが、それだけだった。 5年も経てば、何かが変わるだろうと信じていた。大きな会場でライブをする日が来ると、CDが売れてラジオで流れる日が来ると――けれど、そんなことは一度も起きなかった。 ライブが始まると、麻衣は別人のように振る舞った。暗いステージの上、スポットライトに照らされた彼女は、まるで傷ついた獣のように目を光らせ、マイクに牙を剥いた。 「ねえ、聞いてよ。どうしてこんなに息苦しいんだろう。」 歌うたびに、ステージの下から歓声が上がる。それでも、その歓声は麻衣の胸に響くことはなかった。彼女は分かっている。これらの声は、決して外の世界には届かない。 ライブが終わり、アンコールも済ませて控室に戻ると、汗に濡れた髪を掻き上げながら、麻衣はソファに崩れ落ちた。 「麻衣ちゃん、今日の客入り、悪くなかったよな。」 ベースの良治が嬉しそうに言う。 「まあ、そうね。」 麻衣は短く答えただけだった。終電近くの電車に揺られながら、麻衣は自分の人生の行く先を考えていた。26歳。周りの友人たちは次々に結婚していき、職場での昇進を報告してくる。麻衣も一度は普通の仕事に就いたことがあったが、長続きしなかった。 「結局、私にはこれしかないのかもしれない。」 それでも、バンドでの生活も決して安定しているわけではない。ライブの収益だけでは暮らしていけず、昼間は喫茶店でアルバイトをしている。 「ずっとこのままなのかな……」 窓に映る自分の顔は、いつの間にか疲れ切ったように見えた。家に帰ると、狭い部屋の壁に貼られたバンドポスターが目に入った。まだ20歳だった頃、自分たちが初めてライブをしたときの記念だ。 「この頃は、何も考えずに楽しかったな。」 麻衣はそのポスターにそっと手を伸ばすが、すぐに手を引っ込めた。ベッドに横たわり、天井を見つめる。眠りにつくのが怖かった。夢の中で未来が見えることがあればいいのに――そう思いながら、麻衣はゆっくりと目を閉じた。 翌朝、店の開店準備をしながら、麻衣はふと外の空を見上げた。薄曇りの空は、どこか自分の心情に似ている気がした。 「変わらないな……」 それでも、今日も歌を歌うのだろう。この薄暗い世界で、それでも何かを残そうとする自分を笑いたいなら、笑えばいい。そう思いながら、麻衣は今日もまた生きるための準備を始めた。

ケーキと迷彩と青春と

「前へぇー進めッ!!!」 夏の朝、灼熱の太陽の下。迷彩服に身を包み、巨大なリュックを背負った19歳の三浦芽衣は、砂埃が舞う訓練場を必死に走っていた。 「くそっ……どうしてこうなった……」 息を切らしながら走り続ける芽衣の脳裏には、かつての夢が浮かんでいた。 「お前、何になるのが夢なんだ?」 高校3年の進路相談。担任の先生にそう聞かれたとき、芽衣は自信満々にこう答えた。 「ケーキ屋さんです!自分でお店を持つのが夢なんです!」 クッキーやケーキを作るのが大好きで、休日には家族に手作りスイーツを振る舞っていた芽衣。その笑顔が見たくて、彼女はその道を目指すと決めていたのだ。だが、現実は甘くなかった。 「専門学校の学費?……お母さん、今そんな余裕ないのよ。」 家庭の事情で夢を諦めざるを得なかった芽衣。そんなとき、ふと目にした自衛隊のポスターが運命を変えた。 「え、自衛隊?めちゃくちゃ安定してるじゃん。」 ポスターには迷彩服を着た隊員がキラキラした笑顔で「未来を守る」などと書かれていた。 「これだ……私の未来、ここで守られるじゃん」 そしてその数ヶ月後、芽衣はケーキのデコレーション用ヘラではなく、サバイバルナイフを握ることになったのだった。 「もう少しスピード上げろ、三浦!ケーキを運んでるんじゃないぞ!」 訓練教官の怒声が響く。芽衣は顔を真っ赤にしながら叫び返した。 「ケーキはこんなに重たくないですッ!」 周囲の同期たちが吹き出す中、芽衣は地面を蹴り続けた。体力訓練、格闘術、銃の取り扱い。毎日続く厳しい訓練に、芽衣は何度も心が折れそうになった。 「ケーキ屋さんって、もっと優しい世界だったんじゃないの……?」 だが、彼女には負けられない理由があった。それは、訓練所の食堂の存在だった。 「芽衣ちゃん、また新しいスイーツ出してくれたんだ!」 同期の坂口が、芽衣が作った「訓練所特製スイーツ」を手に喜んでいる。そう、芽衣は訓練の合間にこっそり厨房を借り、ケーキ作りを続けていたのだ。最初は冷やしゼリーから始め、チョコレートケーキ、さらには自衛隊のロゴを模したクッキーまで作るようになった。 「お前、なんでこんな本格的なケーキ作れるんだよ?」 ある日、坂口が不思議そうに尋ねた。芽衣は得意げに答える。 「ケーキ作りは私の夢だからね!」 「いや、普通その夢のために自衛隊入らないだろ!」 突っ込む坂口に芽衣は肩をすくめた。 「ま、人生ってそんなもんじゃない?」 そんな芽衣の作るスイーツは、瞬く間に訓練所で評判になり、ついには教官たちまで「三浦の作るプリンがうまい」と噂するほどに。だが、それを良しとしない人物が一人いた。鬼教官・大石である。 「三浦!貴様、自衛隊をなんだと思っている!」 「国を守る場所です!」 「ならば菓子作りはなんだ!」 「心を守る場所です!」 「誰がそんな名言みたいなことを言えと言った!」 そんな大石の厳しい叱責にも関わらず、芽衣のスイーツ作りは止まらなかった。そして迎えた訓練修了式の日。芽衣は仲間たちと共に迷彩服姿で式典に臨んだ。その後の懇親会では、芽衣が作ったケーキが振る舞われた。 「これ、三浦が作ったのか?本当にすごいな!」 「まるで高級ホテルのケーキみたいだよ!」 次々に聞こえてくる称賛の声に、芽衣は笑みを浮かべた。彼女の手の中には、一つの小さなクッキーがあった。それには「未来を守る」と文字が書かれている。 「自衛隊で未来を守るのもいいけど、私の未来はやっぱりケーキ屋さんかな。」 芽衣はその言葉を胸に、今日もまた迷彩服を着て走り出した。ケーキも国も守れる女。それが三浦芽衣だ。

静かなる荒川で起きた殺人事件 第2話

「土の中で塵になっちまう。静かに消えていく。縛られるし、誰も気付かない」 何を言おうとしているのか、わずかに興味はあったが、私には分からなかった。私の何を見てそう思ったのか、言葉や文脈に果たして意味があるのか。 「何も感じない。白くなって浮かび上がる。すべてが軽くなり、なくなっていく」 「はいはい、ごめんなさいね。私には少し難しいみたい」 若い女に説教をすることで、何かしらの満足感を得たいのだろうか。この老人は、明らかに酔いの深みに沈んでいる様子だった。きっとこの店に入る前から何杯か引っ掛けていたに違いない。その赤ら顔と不自然に滑らかな口調がそれを物語っていた。私はこうした状況において、最も賢明な策を選ぶべきだと考えた。無論、それは波風を立てずにこの場を離れることである。恐怖など微塵もなかったが、面倒な事態になるのは御免だ。酒を相当な量飲んでいたのは事実だが、奇妙なほど意識は冴え渡っていた。自分自身を俯瞰するような感覚の中で、たとえ何が起ころうとも、その事態に正しく強く対処できる自信があった。 「そこのお嬢さん、こっちで一緒に飲まないかい。楽しいお話をしよう」 先ほどの二人組の片割れが、大袈裟な身振りで手招きをした。私はこの老人とのやり取りを利用して、自然な流れで同年代の男二人との関係を持つことに成功したのだ。 「楽しいお話をしましょう。とびっきり楽しいお話を」 男たちにしてみれば、自分が人助けをしたというストーリーに乗ることができる。私は森羅万象のすべてを、自分の欲するものを手に入れるための道具として見る。あらゆる細部に目を凝らし、すべてを絡め取り、意図に従わせる。それは自然の摂理を逆手に取るような行為でありながら、私の中では、極めて当然のことのように思えた。私の考えや意図が、他者に見透かされることは決してない。むしろ、それを知覚し得る者がいるとは考えたことすらなかった。ここまではすべてが計画通りだった。 「大きなチキンとフライドポテトがあるよ。少し冷めてしまったけどね。せっかくだし温めてもらおうかな」 丸い目つきの男が、抑揚のない声でそう言った。もう一方の男は、皿に残ったケチャップを指で舐めている。この二人は馬鹿なフリをしているわけではない。酒に酔っているわけでもなく、本当に賢くないのだ。私は直感ですぐにそう悟ったが、今は贅沢を言っている状況ではない。 私は座席の下に置いた鞄を手に取り、ゆっくりと立ち上がった。 「何年経っても。茹で上がる。灰色の塵は戻れない。煙になっても気付かない」 「私はあっちのテーブルに移動したいの。ごめんなさいね」 すると突然、老人の顔つきが険しくなった。 「黙れ!」 老人は、壁が震えるほどの大声を上げ、私の左腕を掴んだ。店内は瞬時に静まり返り、数十の視線が、一斉に私に突き刺さった。その瞬間、空気が凝固したような感覚に包まれた。身体は硬直し、まるで見えない鎖に縛られているかのように、脚は地面に根を張ったまま動かない。恐怖という単純な感情ではなかった。むしろ、その場に留まらざるを得ない奇妙な拘束感と、不安定な静寂が私を支配していた。立ち去りたいと思う気持ちは確かにあった。しかしその願望は言葉として外に出ることもなく、声帯は完全に沈黙を保ち、神経のどこかで伝達が途絶えたような錯覚が広がっていた。それは、生まれて初めて経験する感覚だった。私の中を駆け巡る信号が行き場を失い、混乱の渦を巻いていた。心の奥深くでは、冷静を装う自分と、全身を支配する制御不能な感覚との間で、密やかな葛藤が繰り広げられていた。 「少し飲みすぎているようですね。今夜はもうお帰りください」 華奢な体つきのアルバイト店員が、静かな動作で私と老人との間に滑り込み、その細い腕を差し出して老人の動きを制止した。その一連の行為は、過剰な緊張感も、不必要な力強さも伴わない、むしろ日常の延長のような滑らかさがあった。私は瞬きを忘れたようにその光景を見つめながら、ただその場に立ち尽くしていた。このアルバイト店員はおそらく学生だろう。ティーンエイジャーが好みそうなカラフルな色合いのスニーカーを履いていて、全身から甘ったるい幼さも感じられる。彼は老人とレジ横で短い言葉を交わした。そのやりとりはまるで、必要最低限の言葉だけで成り立つ暗号のように簡潔だった。やがて、老人は何も言わずに会計を済ませると、店のドアを押し開けて夜の闇に吸い込まれるように消えていった。 「この手のトラブル対応は、私にとってはもう日常の一部のようなものですから、どうか気にしないでください。それに、こうした経験こそが社会勉強になるのです。時給も少しばかり高いので、一石二鳥です」 彼は慣れた様子で面倒な仕事を淡々と片付けた。私への気遣いも忘れてはいない。彼は烏龍茶を私の居るテーブルまで持ってきてくれた。視覚から得られる情報に反して、彼は優れた思考力と迅速な対応力を持っていた。私は感心せずにはいられなかった。