ウルフリーは、文芸を愛するアマチュア・プロ作家のための、純文学、大衆小説、エッセイ、論考、詩の投稿サイトです。
「これは衝動買いの始まりだ」  片岡修一、45歳。東京で長年働いてきたが、ある日、心がポキリと折れた。日々の忙しさと無意味に思える業務、ぎゅうぎゅう詰めの電車、そして味気ないコンビニ弁当の生活。疲れ果てた彼が突然思い立ったのは、「自然の中で暮らしたい」という衝動だった。不動産サイトを見ていると「山、格安で売ります。500万円」という文字が目に飛び込んできた。500万円は修一の貯金のほぼすべてだったが、「これが最後の賭けだ」と自分を奮い立たせ、彼は契約書にサインをした。購入した山は、地方の小さな町にあり、標高300メートルほど。人里離れた山中の一角にぽつんと存在していた。修一は山の写真を見ながら、「これからは自給自足の生活を始めるんだ」と意気込んでいた。  移住初日。都会の暮らしをすべて捨て、軽トラックに生活用品を積み込んで山へと向かった修一。初日から洗礼を受けることになる。購入した山には電気も水道もなく、簡易トイレが設置された小さな小屋が一つあるだけだった。山道は予想以上に険しく、軽トラックのエンジン音が悲鳴のように響いた。なんとか到着した修一は、周囲を見渡して深呼吸をした。静寂の中で聞こえるのは風の音と鳥のさえずりだけ。 「よし、ここが俺の新しい人生のスタートだ。」  そう言いながら荷物を降ろし、小屋を掃除し始めた。しかし、都会のマンションで過ごしていた修一にとって、蜘蛛の巣や虫だらけの小屋は思った以上に手ごわかった。修一の自給自足生活は、失敗の連続だった。山の土を掘り起こして畑を作ろうとするも、固い土壌に苦戦し、最初の種まきは失敗。水は近くの沢から汲んでくるしかなく、何度も足を滑らせて転んだ。 「こんなはずじゃなかった……」  夜になると、月明かりが薄暗い小屋を照らし、都会のネオンの眩しさが恋しくなることもあった。それでも、修一は都会を捨てた自分の決断を後悔したくなかった。ある日、近くの村で出会った地元の農家の老人から助言をもらった。 「山の土を改良するには、まず枯れ葉や草を使って堆肥を作るといい。水も、雨水を溜めるタンクを作れば少しは楽になるぞ。」  そのアドバイスを元に、修一は少しずつ山の環境に適応していった。堆肥を使った畑ではやがて野菜が芽を出し、沢水を引いて簡易的な灌漑設備を作ることにも成功した。自然の中で暮らす生活は美しいだけではない。孤独と向き合う時間が増えるにつれ、修一はこれまでの人生について考えるようになった。  東京での暮らしは、仕事に追われる毎日だった。競争と効率を重視する社会で生き抜くことに必死で、自分が本当に何を求めているのかを考える余裕などなかった。しかし、山での生活は彼に新しい価値観を与えた。 「生きるって、こんなにも手間がかかることだったんだな。」  手間暇をかけて育てた野菜を初めて収穫したとき、彼はその瑞々しさに感動した。そして、小屋の外で焚き火をしながら作った野菜スープの味は、これまで食べたどんな高級料理よりも美味しかった。  一年が経つ頃には、修一の生活はすっかり安定してきた。畑の収穫量も増え、村の直売所に野菜を卸すことで少しの収入を得られるようになった。地元の人々とも少しずつ交流を深め、冬になると薪割りを手伝い合い、春には山菜採りに出かけるなど、自然と地域社会に溶け込んでいった。  「都会での便利な暮らしを捨てたけれど、その代わりに本当の自由を手に入れた気がする。」  修一は焚き火を見つめながら、自分の選択に満足していることを初めて実感した。  ある日、修一は村の子どもたちが遊びに来ている様子を見て、あるアイデアを思いついた。この山を使って、自然体験を提供する施設を作れないかと考えたのだ。 「都会の子どもたちにも、この自然の素晴らしさを感じてほしい。」  それから修一は、少しずつ資金を貯めながら計画を練り始めた。山での生活は、彼に新しい夢と希望を与えたのだった。最後に残ったのは、修一が得た穏やかな笑顔と、彼の周りに広がる美しい山の景色だった。どんな生活を選んでも、人はやり直すことができる。そして、心を豊かにするのは、金銭や地位ではなく、自分で選んだ「生き方」そのものだということを、彼は身をもって知ったのだ。
 0
 0
 0

春の等式 第3話

「私は前に進むことができる」 奈緒が会社に到着したのは、その翌朝の9時を少し過ぎた頃だった。フロアに足を踏み入れると、すでに何人かの先輩社員がデスクに座り、静かにキーボードを叩いている。その規律正しい空気に触れると、奈緒は背筋を伸ばし、まるで昨日の疲労を忘れるようにデスクに向かった。 スプレッドシートに記録した自分の発見を整理していると、片山が後ろからやってきた。 「おはよう、奈緒。昨日の残業、結構遅かったみたいだな。」 「はい。でも、やっと意味のあるデータが見つけられました。」 奈緒はそう言って、自分が発見したデータの矛盾と、それがどのように業績不振の原因を示しているかを片山に説明した。 片山は資料に目を通しながら、小さく頷いた。 「いい視点だな。これをもとに、チーム全体で次のステップを進めてみよう。」 そう言って片山は軽く笑みを浮かべた。その表情は、奈緒にとって自分の努力が認められたように思え、心が少し軽くなるのを感じた。 数日後、奈緒は初めてクライアントに向けたミーティングに参加することになった。チームの中で最も若手の彼女に直接の発言が求められることは少ないだろうと高をくくっていたが、会議室に入ると片山が意外な提案をした。 「奈緒、昨日まとめたデータの分析を簡単に説明してみてくれ。」 一瞬、奈緒は目を見開いた。視線が自然と他のチームメンバーに泳ぐが、誰も助け舟を出す様子はない。 「……わかりました。」 奈緒は息を整え、スクリーンに映し出された資料を見ながら説明を始めた。声は少し震えていたが、自分の言葉で話すことを心がけた。データに基づいて導き出された矛盾の原因、それがクライアントの課題の核心にどう結びつくのか。 プレゼンが終わると、会議室はしばし静まり返った。奈緒の心臓は早鐘のように鳴っていたが、その沈黙は長く続かなかった。 「なるほど。鋭い視点だね。」 クライアントの一人がそう言うと、他の参加者も頷き始めた。その瞬間、奈緒の胸には小さな自信が芽生えた。 会議が終わり、奈緒は片山と二人で帰りの電車に乗っていた。疲労感が体中に広がっているが、それ以上に心地よい達成感があった。 「お前、今日のプレゼン、よくやったな。」 片山が不意に声をかけてきた。 「本当ですか?正直、あまり自信がなくて……」 「自信なんて最初はみんなない。でも、実際にやってみると、それが自信に繋がるんだ。今日のクライアントの反応を見ただろう?」 奈緒は片山の言葉に頷きながら、自分の中に少しずつ芽生え始めた変化を感じていた。 「まだまだわからないことばかりですが、少しだけ自分が役に立てた気がしました。」 片山は笑みを浮かべながら奈緒の肩を軽く叩いた。 「それで十分だよ。最初の一歩はそれでいい。」 その夜、奈緒は久しぶりにぐっすりと眠ることができた。翌朝、目が覚めると、窓から差し込む朝日の明るさに思わず目を細めた。 「今日も、少しずつやってみよう。」 スーツに袖を通し、手帳をカバンに入れる。奈緒の中には、昨日までの不安とは違う感覚があった。それはまだ小さなものだが、確かな「進む力」を感じさせてくれるものだった。 奈緒は電車に乗り込み、いつものように揺れる車内で立ちながら窓の外を見つめた。外の景色は変わらない。それでも、彼女の中に広がる世界は確実に変わり始めているように思えた。 「これが私の冒険なんだ。」 そう呟きながら、奈緒はこれからの一日を迎える準備を整えていった。

静かなる荒川で起きた殺人事件 第3話

あの老人は一体何者なのだろうか。お茶を飲みながら頭の中を整理する。熱で膨張した思考回路は、限界まで膨れ上がった風船のようだった。どこかで弾けそうな危うさを感じながらも、収束することなく、さらに混乱の渦に引き込まれていく。情報の処理にはまだ時間が掛かりそうだった。 その後、この店の常連らしい客から話を聞くことができた。老人はいつも浴びるように酒を飲んでいて、誰彼構わず話しかけては喧嘩になり、警察の世話になることもしばしばあるという。この界隈では要注意人物として、皆に警戒されているようだった。 私の腕には浅い痣が浮かんでいた。この痣を見るたびに心が沈み、治るまでの間、鬱陶しさがつきまとった。うんざりするほどの嫌悪感に包まれた日々が、終わりなく続いているかのようだった。実にくだらない。私はゴミ捨て場に巣食うドブネズミと変わらない。そんな自分を卑下するような負の感情が頭から離れず、燻っていた。 この一件以来、私はこの街が嫌いになった。酒を飲むなどもってのほかだ。上京して間もない頃の私は、まるで夢の中にいるかのように浮かれた気持ちで毎日を過ごしていた。この街は電車の便が非常に良いことを除けば、特に魅力のない場所だ。今ではそう思っている。私には東京の土地勘が一切なかった。予算の都合で仕方がなかったといえばそれまでだが、実情を知っていたら、この街を選ぶことは絶対にない。 私は河川敷に向かって再び歩き始めた。 待ち合わせの時刻は20時だ。荒川を跨ぐ大きな橋の前の交差点で落ち合うことになっている。どうやら花子よりも早くに到着したようだ。ポケットの中のハンドタオルで汗を拭う。伸び放題の雑草が、四方八方に葉を広げている。我こそ太陽の光を一身に浴びるのだと言わんばかりの生え方だ。周りの個体のことなど考えているわけがない。 私は道路脇に佇む壊れかけのベンチを見つけた。これはおそらく自治体が設置したものではなく、不法に捨てられたもののように見える。躊躇いはあったが、少し疲れたので腰を掛けることにした。ここなら橋を通る車からはよく見えるし、花子も私を見つけることができるはずだ。今夜の天気は曇りだ。雨は降らない予報だが、星が見えない。周囲を見渡し、誰もいないことを確認してから目を閉じた。

川べりの夏休み

「悠斗!ちゃんとお昼までに帰ってくるのよ!」 母の声が背中に届いたが、悠斗は「はーい!」とだけ答えると、自転車に乗り込んでペダルを漕ぎ出した。目的地は、家から15分ほどの場所にある川べり。悠斗はこの夏、自由研究で「川の生き物を観察する」というテーマを選んでいた。理由は単純だ。毎年夏になると、彼はこの川で遊びながら、魚や虫を捕まえるのが大好きだったからだ。 「研究って言うけど、遊びと何が違うんだろうな。」 川に到着すると、彼はリュックサックからノートと鉛筆、そして虫取り網を取り出した。川の流れは穏やかで、水面が太陽の光を受けてキラキラと輝いている。悠斗はその眩しさに目を細めながら、川沿いの茂みに目を凝らした。まず目に入ったのは、川岸の草むらを忙しそうに動き回る小さなカエルだった。 「よし、まずはお前だ!」 悠斗はそっと近づき、手で掴もうとしたが、カエルは悠斗の気配に気づいてピョンと飛び跳ねた。 「あー、待てよ!」 笑いながら追いかける悠斗。結局カエルは捕まえられなかったが、その姿をじっくり観察することができた。ノートを開き、「小さな緑のカエル。指先くらいの大きさ。動きが速い。」と書き込む。 次に目を引いたのは、浅瀬で泳ぐ小さな魚たちだ。悠斗は川に足を入れ、そっと網を差し出した。数回の挑戦の後、ついに網の中に小さなハヤが入った。 「やった!」 透明なビニール袋に水を入れて魚を入れると、その細かい動きに見とれてしまった。魚の模様や尾の形を観察しながら、ノートに絵を描き込む。 「ハヤ。体は銀色で細長い。水の中で素早く動く。」 彼はそれを書き終えると、魚をそっと川に戻した。 川沿いをさらに歩いていると、悠斗は草の陰に大きなトンボを見つけた。 「おお、これはオニヤンマか?」 そっと近づき、手で捕まえるのは難しいと判断して網を使うことにした。数回挑戦した末、ついにトンボを捕まえることができた。 「すごい……こんなに大きいの初めて見た。」 トンボをじっくりと観察し、その黒と黄色の模様や羽の透明感をノートに書き記す。 「オニヤンマ。体長は手のひらくらい。羽は透明で、体には黒と黄色のしま模様。」 トンボを自然に戻すと、悠斗はしばらくの間その飛び去る姿を見つめていた。お昼近くになり、悠斗は川べりの大きな石の上に座った。リュックから水筒を取り出し、一口飲むと冷たい水が体にしみわたる。 「今日は結構いい観察ができたな。」 ノートを見返しながら、悠斗は満足そうに笑った。研究という名目で遊んでいるようなものだったが、自然の中で触れ合う生き物たちとの時間は彼にとってかけがえのないものだった。 家に帰ると、母が玄関で待っていた。 「おかえり。どうだった?」 「すごく楽しかったよ!見て、今日観察したやつ!」 悠斗はノートを見せながら、川での出来事を一生懸命に話した。母は彼の熱心な様子に目を細めながら頷いた。 「それなら、今度お父さんに手伝ってもらって、もう少ししっかりした観察記録にしてみたら?」 「うん!もっといっぱい調べたい!」 その夜、布団に入った悠斗は今日の出来事を思い出していた。自然の中で見た生き物たちの姿や、風の音、水の冷たさ。それらすべてが彼の心に刻まれていた。 「明日もまた行こう。」 そう思いながら、悠斗はゆっくりと目を閉じた。外では、川の流れが静かに続いていた。

赤い風の行方

「ここはどこなんだろう」 砂が舞う荒野に、鋭い風が吹き抜けていた。その風の中を、ひとりの若い女が歩いていた。彼女の名はリリス。短く刈られた黒髪と引き締まった体が、どこかしなやかで野性的な印象を与える。背には頑丈なリュック、腰には刃こぼれした短剣。リリスがこの荒野を歩き始めてから、もう5日が経っていた。彼女の目的地は「赤い風の峡谷」と呼ばれる、伝説の地だ。その場所は砂漠のどこかに隠されていると言われており、そこには世界を一変させるほどの秘宝が眠っているという噂があった。 リリスはかつて、平穏な村で家族と共に暮らしていた。だが、その村は突如として起きた赤い風の嵐によって壊滅した。その日から、彼女の人生は復讐と再生を求める旅へと変わった。赤い風がどこから来たのか、その謎を追ううちに、彼女は風の峡谷の存在を知った。 「あそこにたどり着けば、すべてがわかる。」 それが彼女を突き動かす理由だった。6日目の朝、リリスは古びた地図を広げながら休憩していた。だが、その地図はすでに砂で汚れ、正確さを欠いている。周囲には目印となるものが何一つなく、ただ果てしない砂の大地が広がるばかりだった。 「こんな場所で迷ったら終わりだ。」 リリスは自分にそう言い聞かせ、再び歩き始めた。そのとき、ふいに耳に届いたのは、微かな笛の音だった。 「誰かいる……?」 音が聞こえる方向に歩を進めると、やがて風化した石の柱がいくつも立ち並ぶ場所にたどり着いた。その中心に座っていたのは、年老いた男だった。 「よそ者か。」 男はリリスを見上げながら言った。その声には警戒の色があったが、どこか落ち着きも感じられる。 「赤い風の峡谷を目指しているの。ここから先を知ってる?」 リリスが単刀直入に尋ねると、男は笛を吹くのを止め、じっと彼女を見つめた。そしてゆっくりと口を開いた。 「お前が探しているその峡谷、何があるか知っているのか?」 「……村を滅ぼした風の謎。それを追っている。」 その答えに、男はしばらく黙っていた。そして、深いため息をつくように言った。 「風の峡谷にはたどり着けるかもしれない。だが、それを超える力がなければ、お前も風の一部になるだけだ。」 男の言葉は意味深だったが、リリスには時間がなかった。 「それでも行く。」 彼女の決意を感じ取ったのか、男は砂に埋もれた古い石碑を指差した。 「この柱を越えた先に、風の峡谷の入り口があると言われている。だが、警告はしたぞ。」 その夜、リリスは星空の下で焚き火を囲みながら休んでいた。目を閉じれば、村が赤い嵐に飲み込まれる光景が浮かんでくる。風の轟音、家族の叫び声――そのすべてが彼女を突き動かしていた。 「絶対に止めてみせる。」 小さく呟き、彼女は眠りに落ちた。 翌朝、風の峡谷へと続く細い道にたどり着いたリリスは、突如として吹き荒れる赤い風に迎えられた。目を細め、必死に前に進む。風はまるで生き物のように彼女を押し返そうとしていたが、リリスは一歩ずつ足を進めた。 「これが、すべての始まりなのか……?」 峡谷の奥には、奇妙に輝く赤い結晶が見えた。その結晶から放たれる光が風を巻き起こしているように見える。リリスは短剣を握りしめながら、その結晶に向かってゆっくりと歩み寄った。その瞬間、彼女の周囲に赤い風が渦を巻き、何かが囁く声が聞こえてきた。 「答えを求める者よ……すべてを手に入れる覚悟があるか?」 リリスは短剣をさらに強く握りしめ、静かに頷いた。 「覚悟なら、とうの昔に決めている。」 風がさらに強く吹き荒れる中、リリスは一歩、また一歩と赤い光の中心へ進んでいった――。

静かな家

「私は藁人形なのだろうか」 風が強い夜だった。どこか遠くでドアが軋む音が聞こえる。山奥にひっそりと建つ家は、吹き抜ける風に揺さぶられながらも、静けさを保っていた。家の中では、ひとりの男がロッキングチェアに座り、ぼんやりと窓の外を眺めている。 その家に住む男の名は、大木隼人。40歳。彼は一度も街を出たことがない。山奥の小さな村で育ち、この古びた家でひとり静かに暮らしていた。隼人は何かを待つように窓の外を見つめている。その視線の先には、まばらに生えた木々の間に細い道が続いていた。その道を最後に誰かが通ったのは、いつだっただろう。もう何年も前のことだろうか。隼人の一日は、ほとんど変化がない。朝早く起きて、庭で育てている野菜に水をやる。昼には読書をしながら、手作りのスープをすすり、夜になると星空を眺める。それだけの生活だったが、隼人にとっては十分だった。彼がこの家でひとりで暮らし始めたのは、20代の終わり頃だ。街の生活に疲れ切り、静かな場所を求めてこの家にやってきた。それ以来、誰とも深く関わらず、穏やかな日々を送っている。だが、この夜は少しだけ違った。 午後9時を過ぎた頃、静かな家に小さな異変が起きた。庭の奥から、カサカサと何かが擦れる音が聞こえてきたのだ。隼人は本を閉じ、椅子から立ち上がる。窓越しに庭を見ても、暗闇に包まれて何も見えない。音が気になりながらも、彼は「風のせいだ」と自分に言い聞かせてその場を離れた。しかし、しばらくして再び音がした。今度はもっと近い。 「……誰かいるのか?」 静かな声で呟きながら、隼人はそっと玄関の扉を開けた。冷たい風が吹き込んでくる。庭に足を踏み出し、慎重に音のする方へと進む。そこには、一匹の猫がいた。 猫は、まだ幼いようだった。毛は汚れ、やせ細った体を震わせながら、隼人をじっと見上げている。 「お前……こんなところで何してるんだ。」 隼人が静かにしゃがみ込むと、猫は一歩、また一歩と彼に近づき、やがてその膝の上に前足を乗せた。その動作が、どこか頼るようで、隼人は思わず微笑んだ。 「まあ、少しだけ休んでいけ。」 彼は猫をそっと抱き上げ、家の中に戻った。その夜、隼人は猫にミルクを与え、柔らかいタオルを敷いた箱を用意した。猫は警戒しながらも、やがてその中に収まり、安心したように目を閉じた。 「一晩だけだぞ。」 そう言い聞かせながらも、隼人の心は静かな喜びに満たされていた。翌朝、猫は庭をうろつきながら隼人の後をついて回った。そして気がつけば、いつの間にかその家の「住人」になっていた。それからの日々、隼人の生活は少しだけ変わった。朝、猫が陽だまりで体を伸ばしている姿を眺めるのが日課となり、昼にはその猫と庭を散歩し、夜には一緒に星空を眺めるようになった。 猫が現れてから、不思議と隼人は寂しさを感じなくなった。静かだった家には、今ではかすかな息づかいと小さな足音が響いている。それは、隼人にとって何よりも温かいものだった。「静かな家」と思っていたその場所は、今では確かに「生きている家」になっていた。星がまたたく夜、隼人は猫と並んで窓辺に座り、外を眺めながら静かに呟いた。 「お前が来てくれてよかったよ。」 猫は目を細め、隼人の膝に身を寄せた。そのぬくもりが、隼人の胸に新しい日々の希望を灯していた。

静かなる荒川で起きた殺人事件 第4話

「駅からかなり歩いたわね。スニーカーを履いてきて正解だったわ。これがもしヒールだったら、たぶん途中で挫けていたかもしれないわ」 花子はパフスリーブのふんわりとしたトップスと、涼しげなリネンのフレアスカートでやってきた。肩のラインがなだらかで胸が低い位置にある花子には、この組み合わせがよく似合う。夏の爽やかな風を運んでくるような、軽やかな印象だ。花子は得意気な表情で私の方を見ている。その目は自信に満ち溢れ、彼女自身のスタイルに満足していることを物語っていた。 「今夜は花火大会ではないし、中目黒や吉祥寺に来ているわけではないのよ」 花子はスカートの裾を掴んで私に見せてきた。公私ともに一緒に過ごすことが多い私たちだが、このスカートは初めて見るものだった。 「つい買ってしまったの。どうしても我慢ができなくって。店員さんが着ているのを見て、私もこれが欲しいって強く思ったの。少しお値段が高かったから、今月はもうお洋服は買わないことにしたわ。パパとママに怒られてしまうからね」 花子は毎シーズン、新しい服をローテーションしている。社割で安く買えるとはいえ、私たちの年収は300万円程度だ。トレンドを抑えた新商品をいくつも買う余裕などあるわけがない。普通に暮らしていたら、日々の生活でギリギリなはずだ。花子は自分が賢くないのは父親譲りだとよく嘆いている。そんな花子の父は、花子に対してはとにかく甘い。何度も歯を食いしばれと檄を飛ばしているようなのだが、その言葉は少しも響いていない。まずは娘への金銭的な援助をやめるべきだ。花子ですらそう思っているのだから。 「私も転職先が決まったら、新しい服を買おうかな。今の暗い気持ちを切り替えるためにも」 私と花子は契約社員として働く同僚だ。私がWebデザイナーで、花子は事務職だ。私の契約は先月末で満了して今は無職なのだが、花子はもう少し先まで仕事を続けることになっている。私は故郷で暮らす父のことをふと思い出した。私が東京へ出ることを決めた時、父はそのことを決して快く思っていなかった。むしろ、心の底で私があの大都市でつらい思いをしないだろうかと、深い不安を抱えていた。確かに今、私の心には幸福感など微塵もない。父はことあるごとに庭で取れた新鮮な野菜を仕送りしてくれる。つい先日も、糖度が高い特別な品種のトマトを届けてくれた。父が丹精を込めて育てた野菜は、こっちで手に入るものとは比べ物にならないほど美味しい。腐りかけの粗悪品とは比較にならない。この野菜を口にするたび、私は父の優しさと、自分自身の情けなさが心の中で交錯する。父は私が金銭的に苦労していることを知っているから、余計にその思いが募る。私は父に支えられている。 「このスカート、守子ちゃんが担当した特集ページに掲載されていたものよね。リネンを使った商品の企画で、会社が大々的に宣伝している目玉商品」 暗くてすぐには分からなかったが、花子が着ているスカートには見覚えがあった。 「確かに。これは私が担当した広告の商品ね。企画から関与したからよく覚えているわ。私にとっての最後の仕事だったし」 お金さえあれば、私だってこのスカートを買っていた。 「生地の質感がとてもいいのよね。しっかりとした厚みとコシがあるのに、柔らかい。会社が力を入れるだけの価値があると思う」 今年は麻のようなナチュラルな素材がトレンドで、企画部門は大々的に予算や店舗内のスペースを確保した。アパレル業界の商品は生ものであり、展開までのスピードが命だ。私は慣れない手つきでカメラや照明の機材を操り、撮影した写真の色味を加工し、背景などの素材と合わせて、ポスターや広告用の画像を制作した。 「広告代理店のコンサル様のおかげで、徹夜三昧だったのよ。どうでもいい要求が多すぎて嫌になったわ。もう二度と一緒に仕事をしたくないわね。まず大前提として、私はカメラマンではないのに、すべての撮影の作業が私に振ってきたの。本当に気に入らないわ」 「あのときの守子ちゃんは、顔中がニキビだらけだったわね。髪の毛に艶がなくて、目元からは生気が感じられなかった。正直に言うと、少し笑いそうになっちゃったのよね。だけど、同時に充実した日々を送っているようにも見えたの。毎日のように違うことに挑戦して、試行錯誤しながら進んでいるから、少し羨ましく思ったの」 「あのハゲ坊主は、何度もリテイクを指示してきたのよ。しかも、その指示は抽象的な言葉ばかりで、何を求めているのかさっぱり理解できなかった。デザインの良し悪しは数字や言葉で表現できるものではないから、多少のやり辛さはあるけどね。あのハゲ坊主はデザインについては素人なのよ。私には才能やセンスがないかもしれないけど、ヤツよりはマシだと思うの。もしヤツが広告の才能に乏しくて、このスカートが売れなかったら、即刻クビにされるべきだわ」 このスカートには、商品としての魅力が十分に備わっている。普段の私はスカートを履くことはないが、生地の上品な質感には心を惹かれるものがあった。 私がスカートを履いたら、太郎はかわいいと言ってくれるだろうか。そんな場面を思い浮かべながら、お金に苦労しない日々が訪れることを祈り、ただ今を生き抜くしかない。私には甘い幻想に浸っている暇はない。私の足元には現実が冷たく立ちはだかり、私はただ、その現実を生き抜くことに必死なのだ。お金に苦しむ日々が、いつかは終わると信じて。

灰色の呼吸

「今夜も冷えるな」 夜が更け、街は一瞬の静寂を迎えようとしていた。24歳の圭吾は、橋の下で毛布を体に巻きつけながら、眠りにつく準備をしていた。春とはいえ、夜風は肌寒く、毛布の中に体を丸めても、アスファルトの冷たさが背中に伝わってくる。 圭吾がこの橋の下にたどり着いたのは、三ヶ月前のことだ。それまでは派遣の倉庫作業員として働きながら、小さなアパートで暮らしていた。だが、契約終了の知らせと同時に貯金は尽き、家賃を払えなくなった。親との縁はとうに切れている。友人と呼べる存在も、いつの間にか連絡が途絶えていた。 「生きているだけでも、まあ十分かもしれない――」 そんなふうに考えることで、なんとか自分を納得させてきた。だが、その夜はどうにも心が落ち着かなかった。近くの公園で拾ってきた小さな新聞紙が目に留まり、彼はそれを広げた。 そこには、若者の起業成功物語が特集されていた。24歳のベンチャー経営者が、「この年齢だからこそ挑戦できる」と語る記事が目に入る。 「……24歳、か。」 圭吾は鼻で笑った。自分と同じ年齢の人間が、こうも違う人生を歩んでいることに、苛立ちと虚しさが混ざり合う。かつての自分も、こうした「成功」に憧れていた時期があった。大学を中退した直後、何度も事業プランを書き、融資を申し込んだが、すべて門前払いされた。そこから道がどんどん狭まっていき、今に至る。 翌朝、早くから街の喧騒が戻ってきた。圭吾は橋の下から這い出し、近くの公園へ向かった。ベンチに座り、ぼんやりと行き交う人々を眺める。スーツ姿の会社員、子どもを連れた母親、笑い合う若者たち――どの顔も、圭吾には遠い存在に思えた。 「ここに座っていても、何も変わらないな……」 そう呟きながらも、どこかへ行く気力は湧かなかった。立ち上がる代わりに、鞄から紙とペンを取り出す。これは、彼が唯一残してきた癖だった。紙の上に、なんでもない言葉を書き連ねる。 「橋の下の寒さは、家を持つ人にはわからないだろう。」 「食べ物を手に入れる方法は、無数にあると思っていた。」 「自分の影を追いかけるのは、逃げ場がないときだけだ。」 圭吾は書きながら、どこかでこれが誰かの目に触れることを期待しているのかもしれないと思った。 その日の昼過ぎ、公園のベンチで眠り込んでいた圭吾は、不意に声をかけられて目を覚ました。 「これ、落としましたよ。」 見ると、若い女性が彼の紙を拾い上げて差し出していた。黒縁の眼鏡をかけた彼女は、どこか知的で、控えめな雰囲気を漂わせている。 「ありがとう……」 圭吾が受け取ると、彼女は少し迷うようにしながら言った。 「この文章、書いたのはあなたですか?」 「まあ、そうだけど。」 「すごく、心に響く言葉だと思います。」 その一言に、圭吾の胸の奥で何かがかすかに震えた。それは、ずっと誰にも認められなかった自分の存在が、ようやく少しだけ肯定されたような感覚だった。 それから数日、彼女は公園に何度か姿を現した。名前は佳奈子。出版社に勤めていると言った。彼女は圭吾の書いた言葉に興味を持ち、もっと見せてほしいと頼んできた。 「これを、世に出す手伝いをさせてください。」 佳奈子のその言葉は、圭吾にとってあまりに現実味がなく、最初は冗談だと思った。しかし、彼女の目は真剣だった。 「……俺みたいな人間の言葉なんて、誰も読まないよ。」 「そんなことないです。この言葉には、真実がある。」 圭吾はしばらく黙り込んだが、最後には小さく頷いた。 佳奈子の手助けで、圭吾の書いた文章が小さな文芸誌に掲載されることになった。その反響は決して大きくはなかったが、確かに読んだ人々の心に何かを残した。 橋の下に戻った夜、圭吾は満天の星空を見上げていた。自分の置かれた状況は変わらないが、胸の中にはわずかに灯る希望があった。 「灰色の空でも、少しずつ色が見えてくるのかもしれないな。」 彼は独り言を呟き、再び紙に言葉を書き始めた。その筆跡は、かつてよりも少しだけ力強くなっていた。