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「悠斗!ちゃんとお昼までに帰ってくるのよ!」  母の声が背中に届いたが、悠斗は「はーい!」とだけ答えると、自転車に乗り込んでペダルを漕ぎ出した。目的地は、家から15分ほどの場所にある川べり。悠斗はこの夏、自由研究で「川の生き物を観察する」というテーマを選んでいた。理由は単純だ。毎年夏になると、彼はこの川で遊びながら、魚や虫を捕まえるのが大好きだったからだ。 「研究って言うけど、遊びと何が違うんだろうな。」  川に到着すると、彼はリュックサックからノートと鉛筆、そして虫取り網を取り出した。川の流れは穏やかで、水面が太陽の光を受けてキラキラと輝いている。悠斗はその眩しさに目を細めながら、川沿いの茂みに目を凝らした。まず目に入ったのは、川岸の草むらを忙しそうに動き回る小さなカエルだった。 「よし、まずはお前だ!」  悠斗はそっと近づき、手で掴もうとしたが、カエルは悠斗の気配に気づいてピョンと飛び跳ねた。 「あー、待てよ!」  笑いながら追いかける悠斗。結局カエルは捕まえられなかったが、その姿をじっくり観察することができた。ノートを開き、「小さな緑のカエル。指先くらいの大きさ。動きが速い。」と書き込む。  次に目を引いたのは、浅瀬で泳ぐ小さな魚たちだ。悠斗は川に足を入れ、そっと網を差し出した。数回の挑戦の後、ついに網の中に小さなハヤが入った。 「やった!」  透明なビニール袋に水を入れて魚を入れると、その細かい動きに見とれてしまった。魚の模様や尾の形を観察しながら、ノートに絵を描き込む。 「ハヤ。体は銀色で細長い。水の中で素早く動く。」  彼はそれを書き終えると、魚をそっと川に戻した。 川沿いをさらに歩いていると、悠斗は草の陰に大きなトンボを見つけた。 「おお、これはオニヤンマか?」  そっと近づき、手で捕まえるのは難しいと判断して網を使うことにした。数回挑戦した末、ついにトンボを捕まえることができた。 「すごい……こんなに大きいの初めて見た。」  トンボをじっくりと観察し、その黒と黄色の模様や羽の透明感をノートに書き記す。 「オニヤンマ。体長は手のひらくらい。羽は透明で、体には黒と黄色のしま模様。」  トンボを自然に戻すと、悠斗はしばらくの間その飛び去る姿を見つめていた。お昼近くになり、悠斗は川べりの大きな石の上に座った。リュックから水筒を取り出し、一口飲むと冷たい水が体にしみわたる。 「今日は結構いい観察ができたな。」  ノートを見返しながら、悠斗は満足そうに笑った。研究という名目で遊んでいるようなものだったが、自然の中で触れ合う生き物たちとの時間は彼にとってかけがえのないものだった。  家に帰ると、母が玄関で待っていた。 「おかえり。どうだった?」 「すごく楽しかったよ!見て、今日観察したやつ!」  悠斗はノートを見せながら、川での出来事を一生懸命に話した。母は彼の熱心な様子に目を細めながら頷いた。 「それなら、今度お父さんに手伝ってもらって、もう少ししっかりした観察記録にしてみたら?」 「うん!もっといっぱい調べたい!」  その夜、布団に入った悠斗は今日の出来事を思い出していた。自然の中で見た生き物たちの姿や、風の音、水の冷たさ。それらすべてが彼の心に刻まれていた。 「明日もまた行こう。」  そう思いながら、悠斗はゆっくりと目を閉じた。外では、川の流れが静かに続いていた。
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静かなる荒川で起きた殺人事件 第6話

「せっかくの夏の夜だというのに、私の心は乾いたままよ」 花子は不機嫌そうに呟いた。その口調には、私に対する不満が色濃く滲み出ていた。花子の目はどこか遠くを見つめ、何かを期待しているようだったが、その期待が叶うことはない。 「今の彼氏とはうまくいってないの?」 花子は一瞬、驚いたような顔をした。確か梅雨が明ける頃に、新しい彼氏ができたと、嬉しそうに話していたはずだ。そのきっかけは花子自身が主催した飲み会だったと思う。花子は人間関係を巧みに築き、交友の輪を広げる才能に長けている。出会いの数がとにかく多く、男を探す場に困ることがない。 「別に不満はないけどね。ピンとこないというか、魅力に欠けるというか。どうしても心の底から愛せないのよ」 「浮気はよくないよ」 花子はいつも見切りが早い。場当たり的な気まぐれで決断しているようにも見えるのだが、僅かながらに冷静な判断が宿っているかのようにも思える。おそらく彼女は、自身の若さと行動力さえあれば、男女の関係において困ることなどないと確信しているのだろう。彼女は決して、いわゆるチヤホヤされるようなタイプではない。しかし私と異なり、男たちの懐に自然に入り込む術を本能的に心得ている。 「実はね。私は今、3人の男と付き合っているの」 花子は少しバツが悪そうな顔をした。 「どういうことよ」 以前にも似たようなことがあった。 「私には本命がいるわけじゃないのよ。時間とともに私の気持ちが変わるかもしれないけど、今のところはさっぱり。惰性で関係を続けているのよね。何もかもが面倒くさいというか。夜の営みですら、心ここにあらずって感じ。多少のサービスはしてあげるけどね。私は魂が抜けた人形なの」 花子は男が途切れない。色欲が強い方ではあるが、刺激を求めているわけではなく、恋にのめり込みたいわけでもない。花子は弱者である自分を養えるだけの十分な収入があり、自分を責め立てない大樹のような男を欲している。そして何より、自身の劣等感を刺激しない、何らかの致命的な欠点のある男を探している。 「私にはお金持ちになりたいという気持ちはないの。ある程度の収入があればそれで満足なの。結婚してもアルバイトで多少は働くつもりよ。私は働くこと自体が好きではないけどね。そこは我慢するわ。ママにこの話をすると、それだと今までの生活水準を維持できないって言うのよ。だから私は稼ぎのいい男を探しているの」 花子は投げやりな口調で話を続けた。 「うちのパパは高校を卒業した後、大企業の工場で働き始めたの。今は総務部の副部長を務めていて、東大や京大を出た部下がたくさんいるのだそうよ。もちろん、自分の能力が部下よりも上だとは思ってないわ。私と同じくらい算数が苦手だしね。お世話係のような付き人がいて、仕事のほとんどはその人に一任されているらしいの。肩身が狭いといつも嘆いているわ。でもそのおかげで、お母さんがパートでも、住んでいる場所が中野区でも、それなりにいい暮らしができたのよ」 花子は、頭の良い人間に対して好意を抱かない。相手の方が格上だと察すると、まるで自分を隠すように距離を置いてしまう。その反応の背後には、彼女の中に潜む微妙なコンプレックスが影を落としている。知性は花子にとって重い鎖となり、心の奥に引け目を感じさせる要因になっている。花子は新卒で入社した会社をわずか一年足らずで辞めてしまった。人材派遣サービス業の営業職として、花子は多くの人とのやり取りを同時にこなす日々に身を置いていた。その中で、自分の限界を痛感する瞬間が訪れたのだ。頭の中で複雑に絡み合う情報や人間関係の中で、花子の頭はそれらを処理しきることができなかった。そして徐々に自らの力不足を認識し、その思いは次第に強い劣等感へと変わっていった。 花子がどのような男と付き合おうが構わないし、さしたる興味もない。今の彼らも、秋の訪れとともに似たような別の誰かに取って代わられるのだろう。季節が変わるたびに、花子の無機質な恋心もまた移り変わっていくのだ。 「守子ちゃんは順調そうね。私は太郎のことが好きになれないけどね。今でもあいつに声を掛けなければよかったと後悔しているわ。あの日の休憩室には、他に丁度いい男が居なかったのよ。運が悪かったわね」 私と太郎は花子が主催した飲み会で知り合った。急遽参加できなくなった男の代わりに、休憩室でコーヒーを飲んでいた太郎が呼ばれたのだ。太郎は花子が好むタイプにはほど遠く、どこか頭の堅い印象を漂わせていた。どの方面から見ても花子とは噛み合わないように思えた。太郎はあまり綺麗とは言えない雑然とした店内に珍しさを感じたのか、周囲を見回しながら、落ち着かない様子を見せていた。まるで色を失った風景の中にぽつんと佇む花のようで、周囲との調和を欠いているかのようだった。 「最近はあまり会っていないのよ。引け目を感じるようになってしまったの。太郎は私と違って、頭が良いし仕事もできる。いつも私の話を聞いてくれて、私の気持ちにも寄り添ってくれるけれど、それが逆に辛いのよ。私は太郎に相応しい女ではないの」 たこ焼きを完食した花子は、何本目か分からない缶チューハイの残りを一息に飲み干した。花子の視線はどこか遠くへと向かい、心の奥深くに秘められた負の感情が、静かに揺れているように感じられた。 「あいつは私たちのことを見下していると思う」 花子は横を向いたまま低い声で言った。 「そんなことは絶対にないわ。親御さんは私のことをあまり良く思っていないみたいだけどね。太郎は他人を見下して優越感に浸るような悲しい人間ではないのよ。私のことを大切に思ってくれているわ」 花子は太郎のことが好きではなかった。太郎はその立ち振る舞いから、育ちの良さが一目瞭然だった。付き合い始めた後に知ったのだが、太郎はそれなりに名のある国立大学を卒業している。本来、私とは交わることのない世界の住人だ。太郎が私に興味を持ってくれたことが、今もなお不思議でならない。 「俺と一緒に住まないかって言われているの。月末までに今のアパートを退去しなきゃいけないことを伝えたら、丁度いいタイミングだって」 私には貯金がなかった。当然のように家賃を滞納し、その果てに待っていたのは、冷徹に下された強制退去の通告だった。その紙切れ一枚が、私の居場所を容赦なく奪い去る。それまで築いてきた小さな世界が突然なくなってしまう。薄い壁越しに隣人の生活音が響く狭い部屋も、いつしか私の身体に馴染んでいたその空間も、すべてが私の手の中から滑り落ちていった。 「太郎の家は1LDKの間取りなの。二人で住むにはちょっと窮屈かもしれないけど、まあ、ストレスなく暮らしていけるくらいの広さはあるかな。私も将来的には一緒に住みたいって思っていたのよね。私は太郎のことが好きだから。太郎だって私のことを心の底から愛してくれているからこそ、そう言ってくれたのだと思う」 少し苦笑いを浮かべながら、私は話し続けた。 「相思相愛で幸せな気持ちでいっぱいなのは確かよ。だけどね、今こんな状態で一緒になるべきではないと思うの」 私には妙な拘りがあった。 「一緒に住んでしまえばいいじゃない。どうせタダで住まわせてもらえるのに」 太郎は会社が借り上げた社宅に住んでいる。太郎が何かを手に入れるために苦労する姿など到底想像できない。太郎の生活は、あたかも見えないレールの上を滑らかに進んでいるかのようで、そこに困窮の影など微塵も感じられなかった。「仕事がつまらない」が口癖になってはいるが、私の望んでいるものがそこにはすべてあったのだ。 「無職になって、家賃も払えなくなって、どうしようもない状態なのよ。惨めな思いでいっぱい。私はどうしても東京で自立して生きたいのよ。誰の力も借りたくないの」 もしも私がこの状況で太郎の家に転がり込むようなことがあれば、周囲の誰もが、そして何よりも私自身が、私を「ダメな人間」と断じるだろう。その視線、その評価、その冷ややかな呟きに包まれながら生活することなど、到底耐えられる気がしない。そんな屈辱にまみれた暮らしを送るくらいなら、路上で過ごす方がまだ誇りを保てるように思えた。ここだけは譲れないのだ。どんなに追い詰められても、この一点だけは、私の自我の中にある最後の守るべきボーダーラインとして残り続けるのだ。 「守子ちゃんは変なところで頑固よね」 親の惜しみない援助を受けながら、軽やかに日々を過ごしている花子には、私が抱えているこの漠然とした不安や、焦燥感の正体を理解することなど到底できはしないだろう。再就職が叶ったとしても、その先に待つのは、決して楽ではない厳しい生活だ。新しい服を買いそろえる余裕など夢のまた夢で、太郎とのデートでは、いつも彼が財布を開くことになる。それを思うたび、何とも言えない劣等感が胸に広がる。 目の前に広がる荒川。この川を越えた先には、少しは楽に呼吸ができるような暮らしがあるのかもしれない。けれど、私は東京を離れることだけはどうしても受け入れられない。東京という空間が私に何を与え、何を奪おうとも、私はその中で生きたいと思っている。どんなに治安が悪かろうと、駅からどれほど遠かろうと、東京都内に住み続けることだけが、私が自分自身を敗者だと認めないための、ただ一つの証明であり、唯一無二の拠り所なのだ。

緑の彼方に沈む陽と、風の音だけが響く午後

「あまりにも価値がない。俺という存在には価値がないし、価値を生み出すこと自体ができないのだ」 高橋直人は、どこにでもいる普通のサラリーマンだった。東京の中堅メーカーに勤めて15年、営業職として日々ノルマに追われ、上司や取引先の機嫌を伺う生活。仕事に打ち込むことで得られる達成感も、家族を支えるという明確な目的もないまま、ただ「働く」という行為そのものが日常の習慣となっていた。高橋が初めて違和感を覚えたのは、40歳を迎えた年だった。社内では後輩たちが成長し、抜擢される姿を目の当たりにしながら、自分の存在が平凡で無意味に思えて仕方なかった。家庭でも同様だった。妻との会話は必要最低限に留まり、娘は反抗期を迎え父親を避けるようになった。居場所のない感覚が高橋を覆っていた。 ある日、部署の業績不振を理由に、上司から異動の内示が告げられた。それは自分のキャリアにおいて「左遷」に近い配置転換だった。高橋は、自分の人生が徐々に沈みゆく夕陽のように薄暗く感じられ、このまま働き続けることに意味があるのか考え始めた。 一通のメールから始まった異国への旅。そんな折、高橋の元に大学時代の友人、鈴木からメールが届いた。鈴木は5年前に会社を辞め、現在はベトナムのホイアンで小さなカフェを経営しているという。そのメールには、カフェの写真や現地の景色、そして短い一文が添えられていた。 「もし息苦しいなら、ここに来ればいい。風はいつも心地いいよ。」 鈴木からの軽い誘いだった。しかしその言葉は、高橋の胸に意外なほど深く響いた。日本での日常に飽き切っていた彼は、何かに背中を押されるように、会社に長期休暇を申し出た。そしてひとまずベトナムに行ってみることを決めた。 ホイアンに降り立った高橋を待っていたのは、湿り気のある温かい風と、赤褐色の瓦屋根が並ぶ穏やかな町だった。街路樹の間を縫うように走るバイク、川沿いの市場から漂うスパイスの香り、そして夕暮れになると現れる無数のランタンが灯る街並み。高橋はその非日常的な光景に、強い衝撃を受けた。友人の鈴木のカフェは、観光客が多く訪れる通りの一角にあった。木造の古い建物を改装したその店は、手作り感のある家具とベトナムらしい装飾品に彩られており、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。高橋は鈴木の提案で、カフェの簡単な手伝いをすることになった。料理を運び、片付けをし、時折観光客の相手をする程度の仕事だったが、彼にとっては新鮮だった。 日本では常に「効率」や「成果」を求められてきた高橋だったが、ここではそのようなプレッシャーが存在しない。仕事を終えれば、バイクで田舎道を走ったり、近くのビーチで夕陽を眺めたりする日々が続いた。その単純で穏やかな生活は、高橋に忘れかけていた「生きている感覚」を取り戻させた。 カフェの仕事を通じて、高橋はベトナム人家族と交流する機会を得た。市場で野菜を売るフォンという女性とその子供たちは、貧しいながらも明るく温かい人々だった。高橋は彼女の家を訪れるようになり、質素な家で一緒に食事をするうちに、彼らの生き方に感銘を受けた。フォンは笑いながらこう語った。 「お金はないけど、家族がいれば幸せ。それだけで十分だよ。」 彼女の言葉は、高橋が日本で感じていた「欠けた何か」を埋める手がかりを示していた。高橋は自分が求めていたのは成功や地位ではなく、心の繋がりや人間らしい生き方だったのではないかと気づき始めた。滞在が3ヶ月を過ぎたころ、高橋は少しずつ自分自身を取り戻していった。早朝の川沿いを散歩しながら、自分のこれまでの人生を振り返ることが増えた。家族のために働くという名目で、実際には仕事に逃げ込み、家庭を疎かにしてきた自分。周囲に認められることばかりを追い求め、心の中で本当に大切なものを見失っていたことに気づいた。 ある日、高橋は鈴木にこう切り出した。 「俺、ここでしばらく暮らしてみようと思う。」 鈴木は微笑みながら答えた。 「いいじゃないか。きっとお前に合ってる。」 新しい生き方だ。それから高橋は日本に帰国せず、ホイアンで新しい生活を始めた。現地の人々に教わりながら農作業を手伝い、土を触る生活を楽しむようになった。忙しさや効率を追い求めることのないその暮らしは、彼にとってまさに解放だった。 ベトナムでの日々を通じて、高橋は自分の生き方を再定義した。そして、日本にいる家族との距離を取り戻すべく、少しずつ連絡を取るようになった。彼の人生にとって「目的」という言葉の意味は変わり、ただ幸せを感じられる瞬間を大切にすることこそが、生きる意義なのだと信じるようになった。ランタンが灯る穏やかな夜、田舎道を歩きながら、高橋は自分の中に残る欠片がようやく一つに繋がったような気がした。そして、その穏やかな日々が続く限り、自分はそれでいいのだと思えたのだった。

未来への設計図

「俺は現状維持の呪縛に囚われている」 中村健太、35歳。地方の建築事務所で働く中堅社員だ。大学卒業後、今の会社に入社してから12年が経つ。健太の主な仕事は住宅の設計補助や現場監督の補佐で、そこそこ安定した生活を送っていたが、毎月の収入は手取りで20万円少々。妻の里美と2歳になる娘がいるが、子どもの保育料や家計のやりくりで貯金はほとんどできない。 「今のままで、本当にこの先大丈夫だろうか……」 そんな不安を抱えながらも、職場の居心地の良さと「転職して失敗したらどうするんだ」という恐れから、一歩を踏み出せずにいた。 転機は、同期の友人からの一通のLINEだった。 「俺、1級建築士の資格取って転職したんだよ。年収900万になった!」 その文字を見たとき、健太は驚きと同時に、強い嫉妬心を覚えた。自分と同じスタートラインにいた友人が、今でははるか先を行っていると感じたのだ。 「1級建築士か……俺には無理だよな。」 そう思いながらも、その夜、健太はベッドの中でスマホを手に、1級建築士の試験について調べ始めた。試験は難易度が高く、合格率は10%前後。しかし、それだけの価値がある資格だった。翌日、健太は妻の里美に資格取得の話を切り出した。 「正直、簡単な道じゃないけど、1級建築士を取れば、俺たちの生活がもっと良くなるかもしれない。」 里美は驚いた表情を見せたが、やがて微笑みながらこう答えた。 「健太くんが本気で頑張るなら、私も応援するよ。でも、無理だけはしないでね。」 その言葉に背中を押され、健太は試験勉強を始めることを決意した。仕事と勉強の両立は想像以上に厳しかった。朝は6時に起きて勉強を始め、昼間は会社で通常業務をこなし、夜は娘を寝かしつけた後に再び机に向かう。 「こんなに詰め込んで、俺の頭は持つのか……」 何度も挫折しそうになりながらも、健太は目標を見失わなかった。勉強に集中するために、スマホの通知を切り、週末の友人との飲み会も断るようになった。半年が過ぎた頃、少しずつ成果が現れ始めた。過去問の正答率が上がり、実務的な知識が現場で役立つ場面も増えた。 「頑張れば何とかなるんじゃないか?」 その小さな成功体験が、健太の心に灯をともした。試験当日、健太は緊張しながらも、「ここまでやったんだから」という自信を胸に臨んだ。試験後、周囲の受験者たちが口々に「今年の問題、難しすぎた」と言っているのを聞いて、不安が膨らんだが、それでも結果を待つしかなかった。数ヶ月後、試験の合格発表日。健太の名前は合格者一覧にしっかりと刻まれていた。 「やった……!」 思わず声を上げ、震える手でスマホを持つと、里美にすぐ電話をかけた。 「健太くん、本当にすごいよ!おめでとう!」 電話越しに聞こえる妻の涙声に、健太の目にも熱いものが浮かんだ。 資格を取った健太は、以前から気になっていた大手設計事務所に応募した。結果は見事内定。提示された年収は現在の約2倍、920万円に届く金額だった。 「これが1級建築士の力か……」 新しい職場は大手ならではのプレッシャーがあったが、健太にとって、それは挑戦しがいのある環境だった。設計の仕事はこれまで以上に責任が重く、忙しい日々が続いたが、達成感は格別だった。 転職から1年後、健太は家族とともに初めて海外旅行に出かけた。 「いつか行ってみたいね」と話していたハワイの青い空の下、里美と娘の笑顔を見て、健太は心から思った。 「この資格を取って本当に良かった。あのとき挑戦していなかったら、こんな景色は見られなかっただろう。」 帰りの飛行機で眠る娘の手を握りながら、健太は新しい人生の設計図を胸に描いていた。挑戦を恐れずに踏み出したその一歩が、彼の未来を大きく変えたのだった。

ひとり山のふもとで

「これは衝動買いの始まりだ」 片岡修一、45歳。東京で長年働いてきたが、ある日、心がポキリと折れた。日々の忙しさと無意味に思える業務、ぎゅうぎゅう詰めの電車、そして味気ないコンビニ弁当の生活。疲れ果てた彼が突然思い立ったのは、「自然の中で暮らしたい」という衝動だった。不動産サイトを見ていると「山、格安で売ります。500万円」という文字が目に飛び込んできた。500万円は修一の貯金のほぼすべてだったが、「これが最後の賭けだ」と自分を奮い立たせ、彼は契約書にサインをした。購入した山は、地方の小さな町にあり、標高300メートルほど。人里離れた山中の一角にぽつんと存在していた。修一は山の写真を見ながら、「これからは自給自足の生活を始めるんだ」と意気込んでいた。 移住初日。都会の暮らしをすべて捨て、軽トラックに生活用品を積み込んで山へと向かった修一。初日から洗礼を受けることになる。購入した山には電気も水道もなく、簡易トイレが設置された小さな小屋が一つあるだけだった。山道は予想以上に険しく、軽トラックのエンジン音が悲鳴のように響いた。なんとか到着した修一は、周囲を見渡して深呼吸をした。静寂の中で聞こえるのは風の音と鳥のさえずりだけ。 「よし、ここが俺の新しい人生のスタートだ。」 そう言いながら荷物を降ろし、小屋を掃除し始めた。しかし、都会のマンションで過ごしていた修一にとって、蜘蛛の巣や虫だらけの小屋は思った以上に手ごわかった。修一の自給自足生活は、失敗の連続だった。山の土を掘り起こして畑を作ろうとするも、固い土壌に苦戦し、最初の種まきは失敗。水は近くの沢から汲んでくるしかなく、何度も足を滑らせて転んだ。 「こんなはずじゃなかった……」 夜になると、月明かりが薄暗い小屋を照らし、都会のネオンの眩しさが恋しくなることもあった。それでも、修一は都会を捨てた自分の決断を後悔したくなかった。ある日、近くの村で出会った地元の農家の老人から助言をもらった。 「山の土を改良するには、まず枯れ葉や草を使って堆肥を作るといい。水も、雨水を溜めるタンクを作れば少しは楽になるぞ。」 そのアドバイスを元に、修一は少しずつ山の環境に適応していった。堆肥を使った畑ではやがて野菜が芽を出し、沢水を引いて簡易的な灌漑設備を作ることにも成功した。自然の中で暮らす生活は美しいだけではない。孤独と向き合う時間が増えるにつれ、修一はこれまでの人生について考えるようになった。 東京での暮らしは、仕事に追われる毎日だった。競争と効率を重視する社会で生き抜くことに必死で、自分が本当に何を求めているのかを考える余裕などなかった。しかし、山での生活は彼に新しい価値観を与えた。 「生きるって、こんなにも手間がかかることだったんだな。」 手間暇をかけて育てた野菜を初めて収穫したとき、彼はその瑞々しさに感動した。そして、小屋の外で焚き火をしながら作った野菜スープの味は、これまで食べたどんな高級料理よりも美味しかった。 一年が経つ頃には、修一の生活はすっかり安定してきた。畑の収穫量も増え、村の直売所に野菜を卸すことで少しの収入を得られるようになった。地元の人々とも少しずつ交流を深め、冬になると薪割りを手伝い合い、春には山菜採りに出かけるなど、自然と地域社会に溶け込んでいった。 「都会での便利な暮らしを捨てたけれど、その代わりに本当の自由を手に入れた気がする。」 修一は焚き火を見つめながら、自分の選択に満足していることを初めて実感した。 ある日、修一は村の子どもたちが遊びに来ている様子を見て、あるアイデアを思いついた。この山を使って、自然体験を提供する施設を作れないかと考えたのだ。 「都会の子どもたちにも、この自然の素晴らしさを感じてほしい。」 それから修一は、少しずつ資金を貯めながら計画を練り始めた。山での生活は、彼に新しい夢と希望を与えたのだった。最後に残ったのは、修一が得た穏やかな笑顔と、彼の周りに広がる美しい山の景色だった。どんな生活を選んでも、人はやり直すことができる。そして、心を豊かにするのは、金銭や地位ではなく、自分で選んだ「生き方」そのものだということを、彼は身をもって知ったのだ。

静かなる荒川で起きた殺人事件 第5話

橋から川沿いに降りると、いくつかの屋台が並んでいた。ここで商売をしている者たちは、正当な許可を得ずに、闇に紛れて酒や軽食を売っている。地元の住民なら誰もがその実情を知っていて、夏になると多くの人が集まる。一級河川である荒川を眺めながら、小さな罪悪感をおかずにして、しっぽりと一杯やるのが楽しいのだ。 「缶チューハイが500円だなんて、驚きだわ。まったくふざけた商売ね。早く取り締まりを受けてしまえばいいのに」 私は念のため、周囲に危険な人物がいないことを確認した。幸いなことに、私たち以外にも数十人の飲んだくれがいるようだった。もし声を上げれば、誰かが気づいてくれるだろう。この場には私たちを守ってくれる人はいない。花子にスニーカーで来るように言ったのは、いざという時に逃げるためだ。もちろん、私自身も動きやすい運動靴を履いてきている。 「若い男が居ないわよ。活気にも欠けるみたいだし、とても残念ね。せっかく新しいお洋服を着てきたのに、私を見てくれるギャラリーが居ないわ」 花子は口を尖らせながらそう言った。 「今夜はハズレかもしれないわね。当たりの日があるかは分からないけど。たまには女二人で飲むのも悪くないじゃない。私は最初からそのつもりで来たの。気を楽にして、普段のストレスを忘れられるチャンスだと思えば、きっと楽しい夜になると思うの」 「そうだったわね。今夜は守子ちゃんのお悩みを聞くためにここに来たのよね。どんなことでも、遠慮せず存分にお話ししてくれて構わないわ。心の中の靄が晴れれば、それが一番大事なことだから」 私たちはたこ焼きを一皿ずつ購入し、砂利の上にレジャーシートを広げ、その上に腰を下ろした。水の流れる音と周囲の静かな賑わいが、次第に私たちの心を和ませていく。 「結局のところ、どの会社からも内定がもらえないのよ。書類審査で次々と落とされてしまって、面接にすら辿り着けない。今はもう何もしたくない」 私は今、人生の終わりを静かに受け入れようとしている。どこか遠くで、薄暗く重い空気が漂い、私はその中で、ほとんど諦めに近い心境に沈んでいる。正社員登用の試験には受かるものだと思い込んでいたが、その期待は無慈悲に打ち砕かれ、不合格の通知を受けた。失望感が心の奥底にのしかかり、未来への希望がゆっくりと薄れていった。 「先は長そうね」 私が書類審査で落ち続ける理由は明白だ。 「私がやりたいのはWebデザインの仕事なの。だから採用の方法が少し特殊なのよ。ディレクターのような管理者や、空想上の皮算用を好むマーケターとは違って、重要なのはデザイン的に優れた成果物なの。スキルや作風を会社に示すための作品集が必要なのよ。花子にも見せたことがあったでしょう」 この作品集は一般的に「ポートフォリオ」と呼ばれる。このポートフォリオの出来栄えを見て、世の採用担当者は採否を決めるのだ。富山県にはWebデザイナーが活躍できる場所など存在しないと思い、私は東京に出てきた。東京には確かに仕事は豊富に存在する。しかし、一流のプロとして確かな品質のアウトプットを生み出せるデザイナーは、意外と少ないのが現実だ。残念ながら、私には美術的なセンスが欠けている。多少の努力は重ねているつもりだが、最前線に立てるほどの実力がない。どれほど時間を費やし、手を動かしてきたとしても、その努力が結実することはない。私はスマートフォンを操作して、花子に画面を見せた。 「守子ちゃんが作るWebページは、悪くはないと思うわよ。例えばこの化粧品のランディングページは、独特の丸みと色使いがキャッチーで、若者の心に刺さりそうな雰囲気だと思うの。だけど、全体のバランスが少し悪いように感じるわ。遠目で見ると、どこか違和感があるというか、何かが足りないような印象を受けるの。やっぱり、改善の余地が大いにあるわね」 私は自身の能力が低いことを十分に認知している。例のリネンの企画の仕事も、私が作成したものに結構な手直しが入っている。それは各所からの要求に合わせた微修正に留まらない。全体を統括するディレクターが、大幅な変更を加えたうえで納品している。私は大学を卒業しても正社員にはなれなかった。私が通っていた大学は、一般的に美大と称されるようなところではない。名前を書くだけで誰でも入学できた。環境のせいにする気はないが、もし高校生の頃に戻れるとしたら、きっと違う進路を選ぶだろう。 「デザインの良し悪しなんて、見る人の感情で決まるのよ。東京にはたくさんの会社があるから大丈夫よ。どれか一つに受かればいいの」 私はWebデザイナーの仕事を続けたいと思っている。花子の目には、私が進むべき新たな道が映っているのだろうか。彼女の顔に浮かぶ険しい表情は、言葉を発することなく多くを物語っているように見えた。状況が改善する見込みはないと、冷静に見定めているのかもしれない。その視線は、私の執着をじっと見据え、頑固に拘り続けることの無意味さを伝えようとしているかのようだった。花子の沈黙が、私の心を静かに揺らす。その微妙な波紋が広がる中で、私自身の進むべき道についての確信は、ますます曖昧になっていくようだった。 「私には、仕事に一所懸命になる人の気持ちがどうしても分からないわ」 花子は無造作に空き缶を手で潰し、持ってきたコンビニのビニール袋に押し込んだ。

白い星が降る夜に

12月24日、クリスマスイブ。都内の繁華街はカラフルなイルミネーションで輝き、カップルや家族連れの笑い声が絶えない。そんな中、一人歩く花村絵里(30歳)の表情は、どこか浮かないものだった。華やかな街並みに反して、彼女の心は灰色に曇っていた。絵里の手には小さな紙袋が握られていた。袋の中には、彼女が焼いたクリスマスクッキーと、ラッピングされた白い封筒。それを届けるため、彼女は繁華街から少し外れた静かな住宅地に向かっていた。行き先は、小さな教会の片隅にある墓地だ。 初恋の人との思い出。絵里の初恋の相手、遼(りょう)は高校時代の同級生だった。優しくて、少しシャイで、勉強は苦手だったが、音楽が好きでギターを弾く彼の姿に絵里は魅了された。放課後の音楽室、二人だけの時間。遼はいつも言っていた。 「俺、いつかお前のために曲を書きたいんだ。」 その夢が叶うことはなかった。大学受験を目前に控えた冬の日、遼は交通事故で突然この世を去った。絵里にとって、それは人生の一部が剥ぎ取られるような喪失感だった。彼女は遼が書きかけていた楽譜の一枚を今も大切に持ち歩いている。遼の死から12年が経った今でも、絵里は毎年クリスマスになると、彼の墓に手作りのクッキーと手紙を届けていた。それが、遼との思い出を繋ぎ止める唯一の手段だった。教会の墓地は、クリスマスイブとは思えないほど静かだった。雪がちらつき始め、冷たい風がコートの隙間から入り込む。絵里は遼の墓石の前に立ち、小さく息を吐いた。 「遼、今年も来たよ。」 そう呟いて、紙袋からクッキーと手紙を取り出し、墓石の前にそっと置いた。雪がクッキーに降り積もり、寒さが手紙の封筒を硬くする。彼女は手を合わせ、遼との思い出を静かに思い出していた。 「私、30歳になったよ。遼がいなくなってから、たくさんのことがあったけど、なんだか全部、心に穴が空いたままでね。きっと、遼がいればもっと楽しい人生だったんだろうなって思うんだ。」 そう語る声は震えていた。心の奥底にしまい込んでいた感情が、彼女の中で静かに波打ち始める。 偶然の再会。そのとき、雪の降る静寂を破るように背後から声がした。 「花村さん……?」 振り向くと、そこに立っていたのは中学校の同級生だった田嶋優也だった。彼は絵里と遼の共通の友人で、絵里が遼と付き合うきっかけを作ってくれた人物でもあった。 「田嶋くん……久しぶりだね。」 彼は手に花束を持っていた。 「たまにここに来てたけど、花村さんに会うのは初めてだね。クリスマスに遼のところに来るなんて、君らしいよ。」 二人は墓の前で少しの間、昔話を交わした。遼の明るさや、不器用な優しさ、そして彼が皆に愛された理由について。優也もまた、遼の死を悼みながらも前を向いて生きてきた一人だった。 「花村さん、ずっと遼のことを思ってたんだね。」 その言葉に絵里は少し驚き、笑って答えた。 「なんだかね、遼がいなかったら、今の私じゃない気がするの。忘れたくても忘れられないし、忘れたくもない。」 優也は優しく頷いた。 「俺も同じだよ。でも、遼はきっと、俺たちが幸せに生きることを望んでると思う。絵里が前に進めるように。」 その言葉に、絵里の目に涙が浮かんだ。彼女は墓石を見つめながら、心の中で遼に語りかけた。 「ありがとう、遼。私、もう少しだけ頑張ってみるね。」 教会を出る頃には雪が本格的に降り始めていた。絵里と優也は並んで歩きながら、これからのことを少しだけ話した。優也は、「またどこかで会おう」と笑い、絵里はそれに小さく頷いた。その夜、絵里の心には少しだけ温かさが灯った。遼を想う気持ちは消えることはないだろう。しかし、彼との思い出は彼女を縛る鎖ではなく、生きる力を与えてくれる灯火になりつつあった。空から降る雪は、まるで白い星のように街を包み込み、彼女の新たな一歩を祝福しているようだった。絵里はその光景を見上げながら、小さく微笑んだ。

見知らぬ道の先で

「きっとこの先に何かがあるはずなんだ」 真夏の午後、アスファルトの道が陽炎に揺れていた。道路脇の草が風にざわめく中、28歳の由紀はリュックサックを背負い、ひとりで歩いていた。背中に張り付く汗が不快だったが、手元の地図を頼りに足を進める。 由紀は2週間前、会社を辞めたばかりだった。理由は単純だ。「このまま続けていても、自分が何のために働いているのかわからない」という漠然とした違和感が彼女の中で膨らんでいたからだ。辞めてからは友人たちに心配されたが、由紀には何となく考えていることがあった。旅に出ること。それも、知らない土地を訪れ、見知らぬ道を歩くこと。 「知らない場所に行けば、何か変わるかもしれない。」 彼女の胸にあったのは、そんな不確かな希望だけだった。今日の目的地は、地図にもほとんど載っていない山奥の集落だ。ネットで見つけた記事には、「ひっそりとした隠れ里」とだけ書かれていた。人里離れたその場所に、昔ながらの暮らしが今も残っているらしい。舗装が途切れた道を歩いていると、ふいに自転車に乗った年配の男性が現れた。由紀が道を尋ねると、彼は親切に教えてくれた。 「この道を真っ直ぐ行ったら、橋が見える。その先を右に曲がると集落に着くよ。まあ、車じゃないと大変だけどね。」 「大丈夫です。歩きで来たので。」 その答えに、男性は少し驚いた顔をしたが、特に何も言わず去っていった。道のりは予想以上に厳しかった。午後3時を過ぎた頃には、太陽の熱が少し和らいでいたが、坂道を歩く足は重くなるばかりだった。 「あと少し……」 汗を拭いながら橋を渡り、教えられた通りに右に曲がると、視界がぱっと開けた。そこには、小さな家々が点在する集落が広がっていた。畑では年配の女性たちが作業をしており、犬が一匹、日陰で寝転がっている。のどかな風景に、由紀は足を止めて息をついた。集落の中心には、古びた木造の公民館があった。扉を叩くと、中から白髪交じりの中年の女性が顔を出した。 「こんにちは。この村にちょっと興味があって、歩いてきました。」 女性は目を丸くしたが、すぐににこやかに微笑んだ。 「まあ、それは珍しい。こんなところに誰かが来るなんて。」 話を聞くと、この村には10世帯ほどしか住んでおらず、若い人はほとんどいないという。農業を営む人が多く、最近は外部との関わりも少なくなったらしい。 「夕方になると、みんな公民館に集まって話をするのよ。よかったら一緒にどう?」 由紀は迷うことなく頷いた。夕方、集落の住人たちが三々五々と集まり始めた。女性、男性、子どもたち。彼らはそれぞれ、自分の収穫した野菜や作った漬物を持ち寄ってきた。由紀は最初、少し緊張していたが、住人たちの親しげな笑顔にすぐに溶け込んだ。彼女の話に耳を傾ける人、村の歴史を語る人、冗談を飛ばす人――そこには、都会では感じられなかった温かさがあった。 「ここに来てよかった。」 彼女の胸の中に、小さな安心感が広がった。 夜になり、由紀は村人に教えてもらった空き家で休むことになった。古びた家だったが、どこか落ち着く空間だった。窓から見える満天の星空に、彼女はただ見入った。 「私の探していたものって、これなのかな。」 都会の便利さや仕事の忙しさから離れた場所で、自分自身を感じること。それが今の由紀にとって必要なことのように思えた。 翌朝、村人たちに別れを告げ、由紀はまた歩き始めた。見知らぬ道はまだ続く。その先に何があるのかはわからない。それでも、足を進めるごとに胸が少しずつ軽くなっていくのを感じた。 「この道の先で、きっと何か見つけられる。」 そう信じながら、彼女は新しい一歩を踏み出していった。