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「真っ暗闇の中に、私は居る」  重く垂れ込めた雲が街全体を覆っていた。冷え切った空気の中、響くのは車のエンジン音と、早足で行き交う人々の足音。大学卒業を間近に控えた健太は、駅前のカフェの窓際席に座りながら、薄いコーヒーの味に苦笑していた。彼の手元には、昨夜から読み続けている就職情報誌。赤いボールペンの跡が無数についたページが、彼の焦りを物語っている。 「ここにある仕事は全部、僕の未来じゃないような気がする――」  健太はそう呟いてため息をついた。雑誌に載っている企業名や業務内容はどれも耳慣れないものばかりで、ただ文字として目に飛び込んでくる。どれ一つとして、自分が心からやりたいと思えるものは見つからない。高校の頃から好きだった小説を書く夢を追い続けるか、それとも家族の期待に応えて安定した職を得るか――その間で揺れ動く彼の心は、答えの出ない迷路に迷い込んでいた。  電車に乗り込んだ健太は、人波に押されて窓際に追いやられた。ガラス越しに映る自分の顔は、どこかぼんやりしている。吊革につかまる人々の無表情な群れ。スーツ姿のビジネスマン、制服を着た高校生、そしてスマートフォンを覗き込む若者たち。その誰もが、何かしらの「目的」に向かっているかのように見えた。 「僕はどこへ向かっているんだろう」  そんな考えが頭をよぎる。周囲の人々が未来の方向性を定め、明確な歩幅で人生を進んでいるように見える中、健太はただ流されるようにその場に立っていた。大学の友人たちが次々と内定を決めていく中、彼だけが取り残されている気がした。 その夜、健太は古びたアパートの狭い部屋で机に向かっていた。部屋の隅には、散乱した参考書や文学全集が積み上げられている。彼が手にしていたのは、何冊も使い古されたノートの一冊だった。小説のアイデアを書き溜めているそのノートは、すでに何百もの言葉で埋め尽くされている。 「これを書いているときだけは、自分が自由になれる気がする……」  鉛筆を握る手が震えた。最近は、書いているうちに言葉が詰まることが増えた。未来への不安が、創作への情熱を鈍らせているのだと自覚している。それでも、書かずにはいられない。「夢を追い続けることは、自己満足でしかないのだろうか」。そんな疑問が、健太の心を何度も突き刺してくる。  ある日、健太は大学の図書館で偶然、かつて好きだった作家のエッセイ集を見つけた。その中に、こんな一節があった。 「人生は常に未完成である。だからこそ、僕たちはその未完成を埋めようとあがく。たとえそれが誰にも評価されないものであっても、自分だけの光を見つけるために。」  その言葉に目を止めた瞬間、健太は胸の中で何かが崩れ落ちるのを感じた。「誰かに認められるために書くのではなく、自分のために書く。それでいいんじゃないか」――心の中でそう呟いた。  卒業式の日、健太は大学の校庭に立っていた。スーツ姿の学生たちが写真を撮り合い、未来の話で盛り上がっている。その輪に加わることなく、健太は一人で空を見上げた。曇天だった空には、薄い日差しが差し始めていた。 「僕はまだ迷っている。でも、それでもいい。今は、自分の言葉を信じて進むしかない。」  彼の手には、あのノートが握られていた。未来の不安を抱えながらも、健太は初めて心の奥底に小さな希望の光が灯るのを感じたのだった。
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灯りの消えない場所

「今日も客は来るだろうか……」 夕方5時、陽が傾き始めた街の片隅で、居酒屋「古川屋」の小さな提灯に火が灯る。店の名前が書かれた布地はところどころ色褪せ、端がほつれている。鉄製の引き戸を開けると、薄暗い店内にカウンター席が6つ、壁際には小さなテーブル席が2つだけ。そのどれもが長年使い込まれ、傷や染みが目立っていた。 店主の古川重雄は、厨房の奥で魚をさばきながら、何度目かのため息をついた。50代後半、くたびれたエプロンを身に着けた彼の顔には深い皺が刻まれ、その目には年々色あせるような疲れが宿っている。 小声で呟いたその言葉は、誰にも届かないまま、店内に吸い込まれて消えた。重雄がこの居酒屋を引き継いだのは、30年前のことだった。大学を卒業後、東京の大手食品会社に就職したが、父親が急死したのを機に故郷のこの店を継ぐことになった。 「この店は古川家の顔だ。絶やすわけにはいかない。」 病床でそう語った父の言葉が、ずっと頭の片隅に残っている。若い頃の重雄は、それを誇りと思っていた。だが、時代の波は容赦なく、この小さな居酒屋に押し寄せた。昔は常連客で賑わっていた店も、駅前の再開発が進むにつれて客足が減り、近くにできたチェーン居酒屋に取られてしまった。 客の来ない日が続く中、店を閉めることを考えたこともあった。だが、閉店の決断をするたびに、店の片隅に飾られた父親の遺影が目に入る。その目は、重雄をじっと見つめているようだった。 「この店を守るって、あのとき誓ったんだ……」 そう自分に言い聞かせながら、日々の仕入れを続け、カウンターの磨り減った木目を拭き上げてきた。夜8時を過ぎても、店内は静かなままだった。厨房で古いラジオが流す演歌だけが響いている。重雄は缶ビールを開け、冷めたまかないの煮物をつついていた。 「客が来ないのに店を開け続けるのは、もう自己満足に過ぎないのかもしれないな。」 そう思うことが、最近増えてきた。だが、そのとき、引き戸がゆっくりと開いた。 「やってる?」 顔を出したのは、70代くらいの年配の男性だった。どこかで見たことがある気がしたが、思い出せない。 「ええ、どうぞ。」 重雄が慌てて答えると、男性はゆっくりとカウンター席に座り、こう言った。 「昔、この店に来たことがあるんだ。まだお父さんが生きてた頃だったかな。」 その言葉に、重雄は驚きと共に、どこか懐かしさを覚えた。客が頼んだのは、瓶ビールと塩辛だけだった。重雄が手際よくそれを用意しながら尋ねる。 「随分久しぶりですね。どうしてまた来てくれたんですか?」 客は一口ビールを飲むと、微笑みながら答えた。 「ふと、この店のことを思い出したんだ。あの頃、仕事が辛くてね。お父さんの料理と笑顔に、ずいぶん助けられた。」 「父の……」 「そうさ。こんな小さな店だけど、人の心を温める力があった。」 その言葉に、重雄は返す言葉が見つからなかった。その夜、客が帰った後、重雄はカウンターを拭きながら、何度もその言葉を反芻していた。 「人の心を温める力があった……か。」 この店が誰かの記憶の中で生き続けているということ。それは、父親がこの店に込めた思いが、少しでも残っている証拠なのかもしれない。それが、自分がこの場所に留まる理由なのだろうか――重雄は、初めてそんなことを思った。 翌朝、重雄は少し早く起き、いつもより念入りに店を掃除した。埃の溜まった棚も、古びた提灯も、磨けばまだ光ることに気づいた。 「こんな店でも、来てくれる人がいる。」 そう思うと、重雄の胸の中に、ほんの少しだけ温かいものが灯るのを感じた。それは、父が守ってきた店の灯りが、自分の中でも消えていないことを示しているようだった。

小さな幸せの積み木

「さて、今日も頑張ろう。」 都内の古びたアパートの一室、午前6時。目覚まし時計が鳴ると、28歳の桜井美紗は布団からすぐに起き上がった。部屋は6畳一間で、家賃は月5万円。狭くて古いけれど、彼女にはちょうど良い空間だった。小さく呟きながら、彼女は簡単な朝食を用意する。昨夜作り置きしておいたおにぎりと、インスタント味噌汁。それにスーパーで特売だった卵を焼いて添える。食卓は簡素だが、彼女はこの朝食の時間を大切にしていた。窓を少し開けると、近くの公園から鳥のさえずりが聞こえる。その音を聞きながら湯気の立つ味噌汁を飲むと、心がじんわりと温かくなる。 美紗は現在、スーパーのレジ打ちとカフェのバイトを掛け持ちしている。合わせて週5日、朝から夕方まで働き、年収はおよそ200万円ほどだ。それは決して多くない収入だが、彼女はそれを嘆くことなく、慎ましく生活していた。午前9時、美紗はスーパーの制服に着替え、家を出た。最寄り駅まで歩く途中、顔なじみのおばあさんが道端で花を売っている。 「おはようございます、美紗ちゃん。今日も暑いわね。」 「おはようございます。今日の花も綺麗ですね。」 そんな何気ない挨拶が、彼女にとっての活力だった。おばあさんの笑顔を見るたびに、美紗は自分も誰かを笑顔にしたいと思うのだった。スーパーでは、朝からお客様が絶えない。レジに立ちながら、品物を手に取る人々の表情を見ていると、美紗の心にもいろんな感情がよぎる。 「これ、今週の特売だよね?」 小さな子どもを連れた若い母親が、カゴの中の商品を指差して聞いてきた。 「はい、2つで割引になりますよ。」 美紗が答えると、その母親は嬉しそうに微笑んだ。その笑顔を見ると、美紗はほんの少しだけ胸が温かくなった。仕事の合間には、同僚の佳織と休憩室で話をする。 「ねえ、美紗ちゃん。昨日またネットでおしゃれなカフェ見つけたんだよ!今度一緒に行こうよ!」 「いいね。でも、給料日まで我慢しなきゃな。」 佳織はお金の話を笑い飛ばしてくれるような、気楽な存在だった。彼女との会話が、美紗の日常に少しだけ彩りを添えてくれる。夕方、カフェのバイトへと向かう途中、美紗は小さなパン屋で一つだけパンを買った。バイト先に着くと、スタッフルームでそのパンをゆっくり食べながら、短い休憩時間を過ごす。 「うちのパンも美味しいけど、ここのパンはまた違うね。」 そんな独り言をつぶやきながら、彼女はふっと笑みを浮かべる。その瞬間、自分が好きなものに囲まれていることに気づき、少しだけ幸せな気持ちになるのだった。 夜9時、家に帰ると、部屋の中には温かい明かりが灯っている。美紗はお気に入りの部屋着に着替え、簡単な夕食を作る。野菜炒めとご飯だけの質素な食事だが、冷蔵庫の中で少しだけくたびれたキャベツを使い切ると、妙な達成感があった。 夕食を終えると、彼女はお気に入りの文庫本を手に取り、小さなデスクに向かう。静かな夜、部屋にはページをめくる音だけが響く。その時間が彼女にとって、何よりも贅沢な瞬間だった。 美紗の暮らしは、決して豪華なものではない。だが、彼女の中には小さな満足が積み重なっていた。スーパーのお客様の笑顔、佳織との他愛ない会話、パン屋の小さな発見、そして静かな夜の読書。それらが一つひとつ、美紗の心を温めてくれる。 「大きな幸せなんて、なくてもいいんだ。」 そう思いながら、美紗は部屋の灯りを消し、布団に入る。窓の外では風がそよぎ、小さな夜の音が響いている。明日もまた、変わらない一日が始まる。それでも、その一日が彼女にとって大切な「小さな幸せの積み木」になることを、美紗は知っていた。

廃墟の住人

「儚い気持ちで胸がいっぱいだ」 風が吹き抜けるたびに、崩れた窓枠がかすかに揺れた。その音を合図に、廃墟の隅で眠っていたシロは目を覚ました。足元には、昨夜拾ってきた毛布が敷かれている。彼の細長い耳がぴくりと動き、鼻先で朝の空気を嗅ぐ。湿気を含んだ空気に少しだけ埃の匂いが混じる。 シロは古びた木製の床を軽やかに歩きながら、大きな欠けた窓から外の景色を眺めた。ここはかつて人間たちが暮らしていた場所だ。壁のペンキは剥がれ落ち、草が建物の隙間から生い茂っている。だが、シロにとっては居心地の良い「家」だった。 陽が昇ると、シロはいつものように廃墟の中を巡回し始めた。一つひとつの部屋を通り過ぎ、棚の裏や崩れかけた階段の隙間を確認する。それはもう習慣となった行動で、廃墟という広大なテリトリーを守るための儀式のようなものだった。今日も異常はなさそうだ、と確認すると、彼は1階のホールへ降りていった。かつては大広間だったその空間には、今や誰もいない。床に散らばる破れた新聞紙や錆びた椅子の残骸が、時間の流れを物語っている。シロは中央の場所に腰を下ろし、ふと目を細めた。陽の光が天井の穴から漏れ、その光が彼の白い毛並みを柔らかく照らしている。 昼になると、シロは廃墟を出て、近くの森へ向かう。目的は昼食だ。森には野生の果実が実り、小さな獲物もいる。だが、シロが食べるのは主に木の根元に落ちた果物や、近くの小川で捕る魚だった。 「よし、今日も運がいい。」 そう心の中で呟きながら、シロは木の実を前足で転がし、慎重にかじった。甘みが口に広がると、彼は小さく満足げにうなずいた。食べ終えると、しばらく川辺で水を飲んだ。冷たい水が喉を通る感覚が心地よかった。周囲には他の動物たちがいる気配もあったが、彼らとシロの間には暗黙のルールがあった。お互いに干渉しない。それだけで、十分に平和が保たれるのだ。 夕方、廃墟に戻ると、シロは自分の「巣」の中を整え始めた。毛布をもう少し温かくするため、森で拾ってきた葉を上にかける。彼の巣の中には、小さな骨の破片や、拾い集めた壊れた玩具が並んでいる。それらは彼の唯一の「宝物」だった。その中でも、特に大事にしているのは、古びた人間の写真だった。写真には、笑顔の子どもと犬が映っている。その犬は彼とは違う毛色をしていたが、どこか懐かしい雰囲気があった。この写真を見るたびに、シロは胸の奥に温かい感覚を覚える。 「この廃墟にも、かつてこんな日々があったんだろうな。」 シロは写真をそっと元の場所に戻し、静かに横になった。夜になると、廃墟はさらに静かになる。風の音と、時折聞こえるフクロウの鳴き声が、シロにとっての子守唄だった。彼は目を閉じながら、今日の出来事を振り返る。何も変わらない日々。それでも、彼にとっては十分だった。誰も来ないこの場所で、ただひっそりと、静かに生きていくこと。それがシロの「日常」だった。 「おやすみ、廃墟。」 そう呟くと、シロは小さく丸まり、深い眠りについた。月の光が廃墟全体を照らし、その中で彼の白い体が穏やかに息づいていた。

灰色の呼吸

「今夜も冷えるな」 夜が更け、街は一瞬の静寂を迎えようとしていた。24歳の圭吾は、橋の下で毛布を体に巻きつけながら、眠りにつく準備をしていた。春とはいえ、夜風は肌寒く、毛布の中に体を丸めても、アスファルトの冷たさが背中に伝わってくる。 圭吾がこの橋の下にたどり着いたのは、三ヶ月前のことだ。それまでは派遣の倉庫作業員として働きながら、小さなアパートで暮らしていた。だが、契約終了の知らせと同時に貯金は尽き、家賃を払えなくなった。親との縁はとうに切れている。友人と呼べる存在も、いつの間にか連絡が途絶えていた。 「生きているだけでも、まあ十分かもしれない――」 そんなふうに考えることで、なんとか自分を納得させてきた。だが、その夜はどうにも心が落ち着かなかった。近くの公園で拾ってきた小さな新聞紙が目に留まり、彼はそれを広げた。 そこには、若者の起業成功物語が特集されていた。24歳のベンチャー経営者が、「この年齢だからこそ挑戦できる」と語る記事が目に入る。 「……24歳、か。」 圭吾は鼻で笑った。自分と同じ年齢の人間が、こうも違う人生を歩んでいることに、苛立ちと虚しさが混ざり合う。かつての自分も、こうした「成功」に憧れていた時期があった。大学を中退した直後、何度も事業プランを書き、融資を申し込んだが、すべて門前払いされた。そこから道がどんどん狭まっていき、今に至る。 翌朝、早くから街の喧騒が戻ってきた。圭吾は橋の下から這い出し、近くの公園へ向かった。ベンチに座り、ぼんやりと行き交う人々を眺める。スーツ姿の会社員、子どもを連れた母親、笑い合う若者たち――どの顔も、圭吾には遠い存在に思えた。 「ここに座っていても、何も変わらないな……」 そう呟きながらも、どこかへ行く気力は湧かなかった。立ち上がる代わりに、鞄から紙とペンを取り出す。これは、彼が唯一残してきた癖だった。紙の上に、なんでもない言葉を書き連ねる。 「橋の下の寒さは、家を持つ人にはわからないだろう。」 「食べ物を手に入れる方法は、無数にあると思っていた。」 「自分の影を追いかけるのは、逃げ場がないときだけだ。」 圭吾は書きながら、どこかでこれが誰かの目に触れることを期待しているのかもしれないと思った。 その日の昼過ぎ、公園のベンチで眠り込んでいた圭吾は、不意に声をかけられて目を覚ました。 「これ、落としましたよ。」 見ると、若い女性が彼の紙を拾い上げて差し出していた。黒縁の眼鏡をかけた彼女は、どこか知的で、控えめな雰囲気を漂わせている。 「ありがとう……」 圭吾が受け取ると、彼女は少し迷うようにしながら言った。 「この文章、書いたのはあなたですか?」 「まあ、そうだけど。」 「すごく、心に響く言葉だと思います。」 その一言に、圭吾の胸の奥で何かがかすかに震えた。それは、ずっと誰にも認められなかった自分の存在が、ようやく少しだけ肯定されたような感覚だった。 それから数日、彼女は公園に何度か姿を現した。名前は佳奈子。出版社に勤めていると言った。彼女は圭吾の書いた言葉に興味を持ち、もっと見せてほしいと頼んできた。 「これを、世に出す手伝いをさせてください。」 佳奈子のその言葉は、圭吾にとってあまりに現実味がなく、最初は冗談だと思った。しかし、彼女の目は真剣だった。 「……俺みたいな人間の言葉なんて、誰も読まないよ。」 「そんなことないです。この言葉には、真実がある。」 圭吾はしばらく黙り込んだが、最後には小さく頷いた。 佳奈子の手助けで、圭吾の書いた文章が小さな文芸誌に掲載されることになった。その反響は決して大きくはなかったが、確かに読んだ人々の心に何かを残した。 橋の下に戻った夜、圭吾は満天の星空を見上げていた。自分の置かれた状況は変わらないが、胸の中にはわずかに灯る希望があった。 「灰色の空でも、少しずつ色が見えてくるのかもしれないな。」 彼は独り言を呟き、再び紙に言葉を書き始めた。その筆跡は、かつてよりも少しだけ力強くなっていた。

錆びた歯車と河川敷の疾走

「俺、何やってるんだろうな……」 松田翔平、29歳。地方の中小企業に勤めている。翔平の仕事は、町工場で作られた、どこか頼りない製品を売り込む営業だ。部品の精度も低く、商品開発の思想も古臭い。正直、翔平自身も自分の売っているものが「ゴミ商材」だと思っていた。「これさえあれば他社を圧倒できます!」と笑顔で営業先に頭を下げるたび、自分の中のプライドが少しずつ削られていくような気がした。そんな自問自答を繰り返しながらも、地方の狭い就職市場でまともな転職先を見つける自信はなく、嫌気が刺しながらも現状維持を続けていた。 その日も、取引先からのクレーム対応で一日中頭を下げ続けていた翔平。定時を2時間過ぎてようやく会社を出た彼は、薄汚れた営業車を駐車場に停め、自分のバイクにまたがった。翔平の愛車は、中古で手に入れたホンダのネイキッドバイク。もう10年は走っている古い型だが、翔平にとっては唯一心を癒やしてくれる存在だった。 「もう、全部どうでもいい。」 ヘルメットを被り、アクセルを回すと、エンジンが夜空に低い唸り声を響かせる。彼は街の灯りを避けるように走り出し、人気の少ない河川敷へと向かった。 河川敷に到着すると、翔平はバイクを全力で走らせた。暗闇の中、ヘッドライトの光だけが目の前の道を照らす。左右に広がるのは草むらと土手、遠くに見えるのは街の明かりだけだ。 「こんな場所で転んでも誰も助けに来ないだろうな。」 そう思いながらも、翔平はアクセルを緩めることなく、風を切って走り続けた。時速100キロを超えるスピードで走るたび、胸の中の鬱屈した思いが少しずつ薄れていくような気がした。 「こんなくだらない会社、辞めてやる……」 声に出してそう叫ぶと、河川敷の静寂がその言葉を吸い込んでいった。突然、記憶の中に高校時代の自分が蘇った。あの頃は、バイクに憧れ、仲間と自由を追いかけていた。バイク雑誌を読み漁り、初めてエンジンをかけたときの感動は今でも忘れられない。だが、そんな自由も、大人になるにつれて失われていった。家族の期待、就職活動のプレッシャー、そして地方における「安定」という呪い。 「自由って、何だったんだろうな。」 翔平はそうつぶやきながら、アクセルをさらにひねった。ふと気がつくと、バイクは河川敷の終点に近づいていた。小さな橋のたもとでバイクを停めると、エンジン音が静寂に吸い込まれ、夜の虫の声だけが聞こえた。翔平はバイクから降りて、橋の下に腰を下ろした。川のせせらぎを聞きながら、彼は空を見上げた。都会のようにネオンはなく、見えるのは満天の星空だけだった。 「こんなに星が見える場所があるなんてな……」 ふと、心の中にぽっかりと空いた穴が埋まっていくような感覚があった。その夜、河川敷で翔平はひとつの決意をした。 「こんな生活、もう終わりにしよう。自分のために生きるんだ。」 家に帰ると、彼はすぐにパソコンを開き、転職サイトに登録した。そして、自分が本当にやりたいことを模索し始めた。 数ヶ月後、翔平は新しい職場で働き始めた。そこは地方でも珍しい革新的な設計事務所で、バイク用のカスタムパーツを専門に取り扱っていた。自分の好きなものに関わる仕事をすることで、彼の毎日は充実感に満ちていた。 そして、夜の河川敷を再び訪れたとき、翔平は笑顔で言った。 「ここが俺の原点だ。これからも、好きな道を走り続けるだけだ。」 暗闇に響くエンジン音が、翔平の新たな人生のスタートを告げていた。

静かな家

「私は藁人形なのだろうか」 風が強い夜だった。どこか遠くでドアが軋む音が聞こえる。山奥にひっそりと建つ家は、吹き抜ける風に揺さぶられながらも、静けさを保っていた。家の中では、ひとりの男がロッキングチェアに座り、ぼんやりと窓の外を眺めている。 その家に住む男の名は、大木隼人。40歳。彼は一度も街を出たことがない。山奥の小さな村で育ち、この古びた家でひとり静かに暮らしていた。隼人は何かを待つように窓の外を見つめている。その視線の先には、まばらに生えた木々の間に細い道が続いていた。その道を最後に誰かが通ったのは、いつだっただろう。もう何年も前のことだろうか。隼人の一日は、ほとんど変化がない。朝早く起きて、庭で育てている野菜に水をやる。昼には読書をしながら、手作りのスープをすすり、夜になると星空を眺める。それだけの生活だったが、隼人にとっては十分だった。彼がこの家でひとりで暮らし始めたのは、20代の終わり頃だ。街の生活に疲れ切り、静かな場所を求めてこの家にやってきた。それ以来、誰とも深く関わらず、穏やかな日々を送っている。だが、この夜は少しだけ違った。 午後9時を過ぎた頃、静かな家に小さな異変が起きた。庭の奥から、カサカサと何かが擦れる音が聞こえてきたのだ。隼人は本を閉じ、椅子から立ち上がる。窓越しに庭を見ても、暗闇に包まれて何も見えない。音が気になりながらも、彼は「風のせいだ」と自分に言い聞かせてその場を離れた。しかし、しばらくして再び音がした。今度はもっと近い。 「……誰かいるのか?」 静かな声で呟きながら、隼人はそっと玄関の扉を開けた。冷たい風が吹き込んでくる。庭に足を踏み出し、慎重に音のする方へと進む。そこには、一匹の猫がいた。 猫は、まだ幼いようだった。毛は汚れ、やせ細った体を震わせながら、隼人をじっと見上げている。 「お前……こんなところで何してるんだ。」 隼人が静かにしゃがみ込むと、猫は一歩、また一歩と彼に近づき、やがてその膝の上に前足を乗せた。その動作が、どこか頼るようで、隼人は思わず微笑んだ。 「まあ、少しだけ休んでいけ。」 彼は猫をそっと抱き上げ、家の中に戻った。その夜、隼人は猫にミルクを与え、柔らかいタオルを敷いた箱を用意した。猫は警戒しながらも、やがてその中に収まり、安心したように目を閉じた。 「一晩だけだぞ。」 そう言い聞かせながらも、隼人の心は静かな喜びに満たされていた。翌朝、猫は庭をうろつきながら隼人の後をついて回った。そして気がつけば、いつの間にかその家の「住人」になっていた。それからの日々、隼人の生活は少しだけ変わった。朝、猫が陽だまりで体を伸ばしている姿を眺めるのが日課となり、昼にはその猫と庭を散歩し、夜には一緒に星空を眺めるようになった。 猫が現れてから、不思議と隼人は寂しさを感じなくなった。静かだった家には、今ではかすかな息づかいと小さな足音が響いている。それは、隼人にとって何よりも温かいものだった。「静かな家」と思っていたその場所は、今では確かに「生きている家」になっていた。星がまたたく夜、隼人は猫と並んで窓辺に座り、外を眺めながら静かに呟いた。 「お前が来てくれてよかったよ。」 猫は目を細め、隼人の膝に身を寄せた。そのぬくもりが、隼人の胸に新しい日々の希望を灯していた。

静かなる荒川で起きた殺人事件 第6話

「せっかくの夏の夜だというのに、私の心は乾いたままよ」 花子は不機嫌そうに呟いた。その口調には、私に対する不満が色濃く滲み出ていた。花子の目はどこか遠くを見つめ、何かを期待しているようだったが、その期待が叶うことはない。 「今の彼氏とはうまくいってないの?」 花子は一瞬、驚いたような顔をした。確か梅雨が明ける頃に、新しい彼氏ができたと、嬉しそうに話していたはずだ。そのきっかけは花子自身が主催した飲み会だったと思う。花子は人間関係を巧みに築き、交友の輪を広げる才能に長けている。出会いの数がとにかく多く、男を探す場に困ることがない。 「別に不満はないけどね。ピンとこないというか、魅力に欠けるというか。どうしても心の底から愛せないのよ」 「浮気はよくないよ」 花子はいつも見切りが早い。場当たり的な気まぐれで決断しているようにも見えるのだが、僅かながらに冷静な判断が宿っているかのようにも思える。おそらく彼女は、自身の若さと行動力さえあれば、男女の関係において困ることなどないと確信しているのだろう。彼女は決して、いわゆるチヤホヤされるようなタイプではない。しかし私と異なり、男たちの懐に自然に入り込む術を本能的に心得ている。 「実はね。私は今、3人の男と付き合っているの」 花子は少しバツが悪そうな顔をした。 「どういうことよ」 以前にも似たようなことがあった。 「私には本命がいるわけじゃないのよ。時間とともに私の気持ちが変わるかもしれないけど、今のところはさっぱり。惰性で関係を続けているのよね。何もかもが面倒くさいというか。夜の営みですら、心ここにあらずって感じ。多少のサービスはしてあげるけどね。私は魂が抜けた人形なの」 花子は男が途切れない。色欲が強い方ではあるが、刺激を求めているわけではなく、恋にのめり込みたいわけでもない。花子は弱者である自分を養えるだけの十分な収入があり、自分を責め立てない大樹のような男を欲している。そして何より、自身の劣等感を刺激しない、何らかの致命的な欠点のある男を探している。 「私にはお金持ちになりたいという気持ちはないの。ある程度の収入があればそれで満足なの。結婚してもアルバイトで多少は働くつもりよ。私は働くこと自体が好きではないけどね。そこは我慢するわ。ママにこの話をすると、それだと今までの生活水準を維持できないって言うのよ。だから私は稼ぎのいい男を探しているの」 花子は投げやりな口調で話を続けた。 「うちのパパは高校を卒業した後、大企業の工場で働き始めたの。今は総務部の副部長を務めていて、東大や京大を出た部下がたくさんいるのだそうよ。もちろん、自分の能力が部下よりも上だとは思ってないわ。私と同じくらい算数が苦手だしね。お世話係のような付き人がいて、仕事のほとんどはその人に一任されているらしいの。肩身が狭いといつも嘆いているわ。でもそのおかげで、お母さんがパートでも、住んでいる場所が中野区でも、それなりにいい暮らしができたのよ」 花子は、頭の良い人間に対して好意を抱かない。相手の方が格上だと察すると、まるで自分を隠すように距離を置いてしまう。その反応の背後には、彼女の中に潜む微妙なコンプレックスが影を落としている。知性は花子にとって重い鎖となり、心の奥に引け目を感じさせる要因になっている。花子は新卒で入社した会社をわずか一年足らずで辞めてしまった。人材派遣サービス業の営業職として、花子は多くの人とのやり取りを同時にこなす日々に身を置いていた。その中で、自分の限界を痛感する瞬間が訪れたのだ。頭の中で複雑に絡み合う情報や人間関係の中で、花子の頭はそれらを処理しきることができなかった。そして徐々に自らの力不足を認識し、その思いは次第に強い劣等感へと変わっていった。 花子がどのような男と付き合おうが構わないし、さしたる興味もない。今の彼らも、秋の訪れとともに似たような別の誰かに取って代わられるのだろう。季節が変わるたびに、花子の無機質な恋心もまた移り変わっていくのだ。 「守子ちゃんは順調そうね。私は太郎のことが好きになれないけどね。今でもあいつに声を掛けなければよかったと後悔しているわ。あの日の休憩室には、他に丁度いい男が居なかったのよ。運が悪かったわね」 私と太郎は花子が主催した飲み会で知り合った。急遽参加できなくなった男の代わりに、休憩室でコーヒーを飲んでいた太郎が呼ばれたのだ。太郎は花子が好むタイプにはほど遠く、どこか頭の堅い印象を漂わせていた。どの方面から見ても花子とは噛み合わないように思えた。太郎はあまり綺麗とは言えない雑然とした店内に珍しさを感じたのか、周囲を見回しながら、落ち着かない様子を見せていた。まるで色を失った風景の中にぽつんと佇む花のようで、周囲との調和を欠いているかのようだった。 「最近はあまり会っていないのよ。引け目を感じるようになってしまったの。太郎は私と違って、頭が良いし仕事もできる。いつも私の話を聞いてくれて、私の気持ちにも寄り添ってくれるけれど、それが逆に辛いのよ。私は太郎に相応しい女ではないの」 たこ焼きを完食した花子は、何本目か分からない缶チューハイの残りを一息に飲み干した。花子の視線はどこか遠くへと向かい、心の奥深くに秘められた負の感情が、静かに揺れているように感じられた。 「あいつは私たちのことを見下していると思う」 花子は横を向いたまま低い声で言った。 「そんなことは絶対にないわ。親御さんは私のことをあまり良く思っていないみたいだけどね。太郎は他人を見下して優越感に浸るような悲しい人間ではないのよ。私のことを大切に思ってくれているわ」 花子は太郎のことが好きではなかった。太郎はその立ち振る舞いから、育ちの良さが一目瞭然だった。付き合い始めた後に知ったのだが、太郎はそれなりに名のある国立大学を卒業している。本来、私とは交わることのない世界の住人だ。太郎が私に興味を持ってくれたことが、今もなお不思議でならない。 「俺と一緒に住まないかって言われているの。月末までに今のアパートを退去しなきゃいけないことを伝えたら、丁度いいタイミングだって」 私には貯金がなかった。当然のように家賃を滞納し、その果てに待っていたのは、冷徹に下された強制退去の通告だった。その紙切れ一枚が、私の居場所を容赦なく奪い去る。それまで築いてきた小さな世界が突然なくなってしまう。薄い壁越しに隣人の生活音が響く狭い部屋も、いつしか私の身体に馴染んでいたその空間も、すべてが私の手の中から滑り落ちていった。 「太郎の家は1LDKの間取りなの。二人で住むにはちょっと窮屈かもしれないけど、まあ、ストレスなく暮らしていけるくらいの広さはあるかな。私も将来的には一緒に住みたいって思っていたのよね。私は太郎のことが好きだから。太郎だって私のことを心の底から愛してくれているからこそ、そう言ってくれたのだと思う」 少し苦笑いを浮かべながら、私は話し続けた。 「相思相愛で幸せな気持ちでいっぱいなのは確かよ。だけどね、今こんな状態で一緒になるべきではないと思うの」 私には妙な拘りがあった。 「一緒に住んでしまえばいいじゃない。どうせタダで住まわせてもらえるのに」 太郎は会社が借り上げた社宅に住んでいる。太郎が何かを手に入れるために苦労する姿など到底想像できない。太郎の生活は、あたかも見えないレールの上を滑らかに進んでいるかのようで、そこに困窮の影など微塵も感じられなかった。「仕事がつまらない」が口癖になってはいるが、私の望んでいるものがそこにはすべてあったのだ。 「無職になって、家賃も払えなくなって、どうしようもない状態なのよ。惨めな思いでいっぱい。私はどうしても東京で自立して生きたいのよ。誰の力も借りたくないの」 もしも私がこの状況で太郎の家に転がり込むようなことがあれば、周囲の誰もが、そして何よりも私自身が、私を「ダメな人間」と断じるだろう。その視線、その評価、その冷ややかな呟きに包まれながら生活することなど、到底耐えられる気がしない。そんな屈辱にまみれた暮らしを送るくらいなら、路上で過ごす方がまだ誇りを保てるように思えた。ここだけは譲れないのだ。どんなに追い詰められても、この一点だけは、私の自我の中にある最後の守るべきボーダーラインとして残り続けるのだ。 「守子ちゃんは変なところで頑固よね」 親の惜しみない援助を受けながら、軽やかに日々を過ごしている花子には、私が抱えているこの漠然とした不安や、焦燥感の正体を理解することなど到底できはしないだろう。再就職が叶ったとしても、その先に待つのは、決して楽ではない厳しい生活だ。新しい服を買いそろえる余裕など夢のまた夢で、太郎とのデートでは、いつも彼が財布を開くことになる。それを思うたび、何とも言えない劣等感が胸に広がる。 目の前に広がる荒川。この川を越えた先には、少しは楽に呼吸ができるような暮らしがあるのかもしれない。けれど、私は東京を離れることだけはどうしても受け入れられない。東京という空間が私に何を与え、何を奪おうとも、私はその中で生きたいと思っている。どんなに治安が悪かろうと、駅からどれほど遠かろうと、東京都内に住み続けることだけが、私が自分自身を敗者だと認めないための、ただ一つの証明であり、唯一無二の拠り所なのだ。