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「駅からかなり歩いたわね。スニーカーを履いてきて正解だったわ。これがもしヒールだったら、たぶん途中で挫けていたかもしれないわ」  花子はパフスリーブのふんわりとしたトップスと、涼しげなリネンのフレアスカートでやってきた。肩のラインがなだらかで胸が低い位置にある花子には、この組み合わせがよく似合う。夏の爽やかな風を運んでくるような、軽やかな印象だ。花子は得意気な表情で私の方を見ている。その目は自信に満ち溢れ、彼女自身のスタイルに満足していることを物語っていた。 「今夜は花火大会ではないし、中目黒や吉祥寺に来ているわけではないのよ」  花子はスカートの裾を掴んで私に見せてきた。公私ともに一緒に過ごすことが多い私たちだが、このスカートは初めて見るものだった。 「つい買ってしまったの。どうしても我慢ができなくって。店員さんが着ているのを見て、私もこれが欲しいって強く思ったの。少しお値段が高かったから、今月はもうお洋服は買わないことにしたわ。パパとママに怒られてしまうからね」  花子は毎シーズン、新しい服をローテーションしている。社割で安く買えるとはいえ、私たちの年収は300万円程度だ。トレンドを抑えた新商品をいくつも買う余裕などあるわけがない。普通に暮らしていたら、日々の生活でギリギリなはずだ。花子は自分が賢くないのは父親譲りだとよく嘆いている。そんな花子の父は、花子に対してはとにかく甘い。何度も歯を食いしばれと檄を飛ばしているようなのだが、その言葉は少しも響いていない。まずは娘への金銭的な援助をやめるべきだ。花子ですらそう思っているのだから。 「私も転職先が決まったら、新しい服を買おうかな。今の暗い気持ちを切り替えるためにも」  私と花子は契約社員として働く同僚だ。私がWebデザイナーで、花子は事務職だ。私の契約は先月末で満了して今は無職なのだが、花子はもう少し先まで仕事を続けることになっている。私は故郷で暮らす父のことをふと思い出した。私が東京へ出ることを決めた時、父はそのことを決して快く思っていなかった。むしろ、心の底で私があの大都市でつらい思いをしないだろうかと、深い不安を抱えていた。確かに今、私の心には幸福感など微塵もない。父はことあるごとに庭で取れた新鮮な野菜を仕送りしてくれる。つい先日も、糖度が高い特別な品種のトマトを届けてくれた。父が丹精を込めて育てた野菜は、こっちで手に入るものとは比べ物にならないほど美味しい。腐りかけの粗悪品とは比較にならない。この野菜を口にするたび、私は父の優しさと、自分自身の情けなさが心の中で交錯する。父は私が金銭的に苦労していることを知っているから、余計にその思いが募る。私は父に支えられている。 「このスカート、守子ちゃんが担当した特集ページに掲載されていたものよね。リネンを使った商品の企画で、会社が大々的に宣伝している目玉商品」  暗くてすぐには分からなかったが、花子が着ているスカートには見覚えがあった。 「確かに。これは私が担当した広告の商品ね。企画から関与したからよく覚えているわ。私にとっての最後の仕事だったし」  お金さえあれば、私だってこのスカートを買っていた。 「生地の質感がとてもいいのよね。しっかりとした厚みとコシがあるのに、柔らかい。会社が力を入れるだけの価値があると思う」  今年は麻のようなナチュラルな素材がトレンドで、企画部門は大々的に予算や店舗内のスペースを確保した。アパレル業界の商品は生ものであり、展開までのスピードが命だ。私は慣れない手つきでカメラや照明の機材を操り、撮影した写真の色味を加工し、背景などの素材と合わせて、ポスターや広告用の画像を制作した。 「広告代理店のコンサル様のおかげで、徹夜三昧だったのよ。どうでもいい要求が多すぎて嫌になったわ。もう二度と一緒に仕事をしたくないわね。まず大前提として、私はカメラマンではないのに、すべての撮影の作業が私に振ってきたの。本当に気に入らないわ」 「あのときの守子ちゃんは、顔中がニキビだらけだったわね。髪の毛に艶がなくて、目元からは生気が感じられなかった。正直に言うと、少し笑いそうになっちゃったのよね。だけど、同時に充実した日々を送っているようにも見えたの。毎日のように違うことに挑戦して、試行錯誤しながら進んでいるから、少し羨ましく思ったの」 「あのハゲ坊主は、何度もリテイクを指示してきたのよ。しかも、その指示は抽象的な言葉ばかりで、何を求めているのかさっぱり理解できなかった。デザインの良し悪しは数字や言葉で表現できるものではないから、多少のやり辛さはあるけどね。あのハゲ坊主はデザインについては素人なのよ。私には才能やセンスがないかもしれないけど、ヤツよりはマシだと思うの。もしヤツが広告の才能に乏しくて、このスカートが売れなかったら、即刻クビにされるべきだわ」  このスカートには、商品としての魅力が十分に備わっている。普段の私はスカートを履くことはないが、生地の上品な質感には心を惹かれるものがあった。  私がスカートを履いたら、太郎はかわいいと言ってくれるだろうか。そんな場面を思い浮かべながら、お金に苦労しない日々が訪れることを祈り、ただ今を生き抜くしかない。私には甘い幻想に浸っている暇はない。私の足元には現実が冷たく立ちはだかり、私はただ、その現実を生き抜くことに必死なのだ。お金に苦しむ日々が、いつかは終わると信じて。
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見知らぬ道の先で

「きっとこの先に何かがあるはずなんだ」 真夏の午後、アスファルトの道が陽炎に揺れていた。道路脇の草が風にざわめく中、28歳の由紀はリュックサックを背負い、ひとりで歩いていた。背中に張り付く汗が不快だったが、手元の地図を頼りに足を進める。 由紀は2週間前、会社を辞めたばかりだった。理由は単純だ。「このまま続けていても、自分が何のために働いているのかわからない」という漠然とした違和感が彼女の中で膨らんでいたからだ。辞めてからは友人たちに心配されたが、由紀には何となく考えていることがあった。旅に出ること。それも、知らない土地を訪れ、見知らぬ道を歩くこと。 「知らない場所に行けば、何か変わるかもしれない。」 彼女の胸にあったのは、そんな不確かな希望だけだった。今日の目的地は、地図にもほとんど載っていない山奥の集落だ。ネットで見つけた記事には、「ひっそりとした隠れ里」とだけ書かれていた。人里離れたその場所に、昔ながらの暮らしが今も残っているらしい。舗装が途切れた道を歩いていると、ふいに自転車に乗った年配の男性が現れた。由紀が道を尋ねると、彼は親切に教えてくれた。 「この道を真っ直ぐ行ったら、橋が見える。その先を右に曲がると集落に着くよ。まあ、車じゃないと大変だけどね。」 「大丈夫です。歩きで来たので。」 その答えに、男性は少し驚いた顔をしたが、特に何も言わず去っていった。道のりは予想以上に厳しかった。午後3時を過ぎた頃には、太陽の熱が少し和らいでいたが、坂道を歩く足は重くなるばかりだった。 「あと少し……」 汗を拭いながら橋を渡り、教えられた通りに右に曲がると、視界がぱっと開けた。そこには、小さな家々が点在する集落が広がっていた。畑では年配の女性たちが作業をしており、犬が一匹、日陰で寝転がっている。のどかな風景に、由紀は足を止めて息をついた。集落の中心には、古びた木造の公民館があった。扉を叩くと、中から白髪交じりの中年の女性が顔を出した。 「こんにちは。この村にちょっと興味があって、歩いてきました。」 女性は目を丸くしたが、すぐににこやかに微笑んだ。 「まあ、それは珍しい。こんなところに誰かが来るなんて。」 話を聞くと、この村には10世帯ほどしか住んでおらず、若い人はほとんどいないという。農業を営む人が多く、最近は外部との関わりも少なくなったらしい。 「夕方になると、みんな公民館に集まって話をするのよ。よかったら一緒にどう?」 由紀は迷うことなく頷いた。夕方、集落の住人たちが三々五々と集まり始めた。女性、男性、子どもたち。彼らはそれぞれ、自分の収穫した野菜や作った漬物を持ち寄ってきた。由紀は最初、少し緊張していたが、住人たちの親しげな笑顔にすぐに溶け込んだ。彼女の話に耳を傾ける人、村の歴史を語る人、冗談を飛ばす人――そこには、都会では感じられなかった温かさがあった。 「ここに来てよかった。」 彼女の胸の中に、小さな安心感が広がった。 夜になり、由紀は村人に教えてもらった空き家で休むことになった。古びた家だったが、どこか落ち着く空間だった。窓から見える満天の星空に、彼女はただ見入った。 「私の探していたものって、これなのかな。」 都会の便利さや仕事の忙しさから離れた場所で、自分自身を感じること。それが今の由紀にとって必要なことのように思えた。 翌朝、村人たちに別れを告げ、由紀はまた歩き始めた。見知らぬ道はまだ続く。その先に何があるのかはわからない。それでも、足を進めるごとに胸が少しずつ軽くなっていくのを感じた。 「この道の先で、きっと何か見つけられる。」 そう信じながら、彼女は新しい一歩を踏み出していった。

未来への設計図

「俺は現状維持の呪縛に囚われている」 中村健太、35歳。地方の建築事務所で働く中堅社員だ。大学卒業後、今の会社に入社してから12年が経つ。健太の主な仕事は住宅の設計補助や現場監督の補佐で、そこそこ安定した生活を送っていたが、毎月の収入は手取りで20万円少々。妻の里美と2歳になる娘がいるが、子どもの保育料や家計のやりくりで貯金はほとんどできない。 「今のままで、本当にこの先大丈夫だろうか……」 そんな不安を抱えながらも、職場の居心地の良さと「転職して失敗したらどうするんだ」という恐れから、一歩を踏み出せずにいた。 転機は、同期の友人からの一通のLINEだった。 「俺、1級建築士の資格取って転職したんだよ。年収900万になった!」 その文字を見たとき、健太は驚きと同時に、強い嫉妬心を覚えた。自分と同じスタートラインにいた友人が、今でははるか先を行っていると感じたのだ。 「1級建築士か……俺には無理だよな。」 そう思いながらも、その夜、健太はベッドの中でスマホを手に、1級建築士の試験について調べ始めた。試験は難易度が高く、合格率は10%前後。しかし、それだけの価値がある資格だった。翌日、健太は妻の里美に資格取得の話を切り出した。 「正直、簡単な道じゃないけど、1級建築士を取れば、俺たちの生活がもっと良くなるかもしれない。」 里美は驚いた表情を見せたが、やがて微笑みながらこう答えた。 「健太くんが本気で頑張るなら、私も応援するよ。でも、無理だけはしないでね。」 その言葉に背中を押され、健太は試験勉強を始めることを決意した。仕事と勉強の両立は想像以上に厳しかった。朝は6時に起きて勉強を始め、昼間は会社で通常業務をこなし、夜は娘を寝かしつけた後に再び机に向かう。 「こんなに詰め込んで、俺の頭は持つのか……」 何度も挫折しそうになりながらも、健太は目標を見失わなかった。勉強に集中するために、スマホの通知を切り、週末の友人との飲み会も断るようになった。半年が過ぎた頃、少しずつ成果が現れ始めた。過去問の正答率が上がり、実務的な知識が現場で役立つ場面も増えた。 「頑張れば何とかなるんじゃないか?」 その小さな成功体験が、健太の心に灯をともした。試験当日、健太は緊張しながらも、「ここまでやったんだから」という自信を胸に臨んだ。試験後、周囲の受験者たちが口々に「今年の問題、難しすぎた」と言っているのを聞いて、不安が膨らんだが、それでも結果を待つしかなかった。数ヶ月後、試験の合格発表日。健太の名前は合格者一覧にしっかりと刻まれていた。 「やった……!」 思わず声を上げ、震える手でスマホを持つと、里美にすぐ電話をかけた。 「健太くん、本当にすごいよ!おめでとう!」 電話越しに聞こえる妻の涙声に、健太の目にも熱いものが浮かんだ。 資格を取った健太は、以前から気になっていた大手設計事務所に応募した。結果は見事内定。提示された年収は現在の約2倍、920万円に届く金額だった。 「これが1級建築士の力か……」 新しい職場は大手ならではのプレッシャーがあったが、健太にとって、それは挑戦しがいのある環境だった。設計の仕事はこれまで以上に責任が重く、忙しい日々が続いたが、達成感は格別だった。 転職から1年後、健太は家族とともに初めて海外旅行に出かけた。 「いつか行ってみたいね」と話していたハワイの青い空の下、里美と娘の笑顔を見て、健太は心から思った。 「この資格を取って本当に良かった。あのとき挑戦していなかったら、こんな景色は見られなかっただろう。」 帰りの飛行機で眠る娘の手を握りながら、健太は新しい人生の設計図を胸に描いていた。挑戦を恐れずに踏み出したその一歩が、彼の未来を大きく変えたのだった。

ケーキと迷彩と青春と

「前へぇー進めッ!!!」 夏の朝、灼熱の太陽の下。迷彩服に身を包み、巨大なリュックを背負った19歳の三浦芽衣は、砂埃が舞う訓練場を必死に走っていた。 「くそっ……どうしてこうなった……」 息を切らしながら走り続ける芽衣の脳裏には、かつての夢が浮かんでいた。 「お前、何になるのが夢なんだ?」 高校3年の進路相談。担任の先生にそう聞かれたとき、芽衣は自信満々にこう答えた。 「ケーキ屋さんです!自分でお店を持つのが夢なんです!」 クッキーやケーキを作るのが大好きで、休日には家族に手作りスイーツを振る舞っていた芽衣。その笑顔が見たくて、彼女はその道を目指すと決めていたのだ。だが、現実は甘くなかった。 「専門学校の学費?……お母さん、今そんな余裕ないのよ。」 家庭の事情で夢を諦めざるを得なかった芽衣。そんなとき、ふと目にした自衛隊のポスターが運命を変えた。 「え、自衛隊?めちゃくちゃ安定してるじゃん。」 ポスターには迷彩服を着た隊員がキラキラした笑顔で「未来を守る」などと書かれていた。 「これだ……私の未来、ここで守られるじゃん」 そしてその数ヶ月後、芽衣はケーキのデコレーション用ヘラではなく、サバイバルナイフを握ることになったのだった。 「もう少しスピード上げろ、三浦!ケーキを運んでるんじゃないぞ!」 訓練教官の怒声が響く。芽衣は顔を真っ赤にしながら叫び返した。 「ケーキはこんなに重たくないですッ!」 周囲の同期たちが吹き出す中、芽衣は地面を蹴り続けた。体力訓練、格闘術、銃の取り扱い。毎日続く厳しい訓練に、芽衣は何度も心が折れそうになった。 「ケーキ屋さんって、もっと優しい世界だったんじゃないの……?」 だが、彼女には負けられない理由があった。それは、訓練所の食堂の存在だった。 「芽衣ちゃん、また新しいスイーツ出してくれたんだ!」 同期の坂口が、芽衣が作った「訓練所特製スイーツ」を手に喜んでいる。そう、芽衣は訓練の合間にこっそり厨房を借り、ケーキ作りを続けていたのだ。最初は冷やしゼリーから始め、チョコレートケーキ、さらには自衛隊のロゴを模したクッキーまで作るようになった。 「お前、なんでこんな本格的なケーキ作れるんだよ?」 ある日、坂口が不思議そうに尋ねた。芽衣は得意げに答える。 「ケーキ作りは私の夢だからね!」 「いや、普通その夢のために自衛隊入らないだろ!」 突っ込む坂口に芽衣は肩をすくめた。 「ま、人生ってそんなもんじゃない?」 そんな芽衣の作るスイーツは、瞬く間に訓練所で評判になり、ついには教官たちまで「三浦の作るプリンがうまい」と噂するほどに。だが、それを良しとしない人物が一人いた。鬼教官・大石である。 「三浦!貴様、自衛隊をなんだと思っている!」 「国を守る場所です!」 「ならば菓子作りはなんだ!」 「心を守る場所です!」 「誰がそんな名言みたいなことを言えと言った!」 そんな大石の厳しい叱責にも関わらず、芽衣のスイーツ作りは止まらなかった。そして迎えた訓練修了式の日。芽衣は仲間たちと共に迷彩服姿で式典に臨んだ。その後の懇親会では、芽衣が作ったケーキが振る舞われた。 「これ、三浦が作ったのか?本当にすごいな!」 「まるで高級ホテルのケーキみたいだよ!」 次々に聞こえてくる称賛の声に、芽衣は笑みを浮かべた。彼女の手の中には、一つの小さなクッキーがあった。それには「未来を守る」と文字が書かれている。 「自衛隊で未来を守るのもいいけど、私の未来はやっぱりケーキ屋さんかな。」 芽衣はその言葉を胸に、今日もまた迷彩服を着て走り出した。ケーキも国も守れる女。それが三浦芽衣だ。

境界線の風景

「今日も頑張ろう。一日の始まりだ」 六月の朝、薄曇りの空の下、長谷川徹は役場へ向かう車を運転していた。窓を開けると、山々の緑の匂いと湿った風が入り込み、少し肌寒さを感じる。田舎町の狭い道路は、今朝も静かで、時折すれ違う軽トラックのドライバーが軽く手を挙げて挨拶をしていく。 徹は29歳。大学卒業後にUターンし、地元の小さな町役場に就職して7年目になる。所属は総務課。町の予算管理や各種イベントの企画、地元企業との調整が主な仕事だ。役場の仕事は堅実で、地元では安定した職業として評価されているが、徹自身はその仕事に特別な熱意を抱いているわけではなかった。 「おはようございます。」 役場の玄関をくぐると、古びた庁舎内に挨拶の声が響く。徹はデスクに座り、今日の予定を確認する。最初の仕事は、地元商工会との打ち合わせだった。 「観光パンフレットの制作、どう進めましょうかねえ。」 商工会の会長である古川が、資料をめくりながら話しかけてくる。彼は徹より30歳以上年上だが、妙に親しげで、半ば雑談のように話を進めるのが特徴だった。 「以前のデザインを少し変更して、新しいイベント情報を加えれば十分ではないでしょうか。」 徹は淡々と答えた。古川は頷きながらも、少し不満そうな顔を見せる。 「まあ、それもそうだけどね。もっと人を引きつけるアイデアがあればいいんだけどな。」 アイデア。徹の胸に、わずかな重みが生じる。その言葉に反応する自分を、彼は心のどこかで冷ややかに眺めていた。昼休み、徹は庁舎の裏手にある小さな公園で弁当を広げた。近くには、小川が流れており、木々のざわめきが心地よい音を立てている。 「こんな場所で生きていくことが、本当に正しいのだろうか。」 ぼんやりと空を見上げながら、徹はそんなことを考えた。大学時代の友人たちは、都会で仕事をし、それぞれのキャリアを積み重ねている。彼らのSNSには、煌びやかな生活の一端が写し出されていた。それに比べ、自分はこの小さな町で何を成し遂げているのだろうか。 町の人々の生活を支える役場の仕事。それは間違いなく意義のあるものだ。だが、その意義が自分自身にどれだけの意味を持つのか、徹には確信が持てなかった。その日の午後、徹は久しぶりに外回りに出ることになった。地元の農家を訪問し、農業支援金の手続きを確認するためだ。車を走らせると、視界には青々とした田んぼと遠くにそびえる山々が広がる。 訪問先の農家で、年老いた男性が迎えてくれた。彼の顔は深く刻まれた皺に覆われており、その手は土に染まっている。 「支援金の申請、いつも手続きが難しくてなあ。もう少し簡単にしてくれると助かるんだが。」 徹は説明しながら、老いた男性の目に映る疲労と、それでも消えない光を見つめた。その光は、毎日同じ景色を見ながら、同じ作業を繰り返してきた人間にしか持てないものだった。 「俺たちの仕事なんて、そんなに大したもんじゃないよ。ただ、この田んぼがきれいに見えるうちは、何とかやっていけると思ってるんだ。」 帰り道、徹は窓を開けて風を感じながら、その言葉を反芻していた。その田んぼのきれいさが、誰かにとってどれほど重要なものなのか。それを支えるために自分がいるのだとしたら、それは価値のあることではないか。 その夜、家に帰った徹は机に向かい、町の観光パンフレットのデザイン案を考え始めた。これまでの無難な構成ではなく、もっと大胆で、人の目を引くものにしてみよう。自分がこの町で見た景色の美しさ、それが他の人にも伝わるようなものを――。 机の上のノートにペンを走らせながら、彼はふと思った。自分がどんな形でこの町に関わり、何を残していけるのか。それを模索することが、今の自分にできる精一杯の答えなのかもしれない、と。 「まあ、焦らずやってみるか。」 小さな声でそう呟くと、窓の外から涼しい風が吹き込み、彼の肩をそっと撫でていった。

赤い風の行方

「ここはどこなんだろう」 砂が舞う荒野に、鋭い風が吹き抜けていた。その風の中を、ひとりの若い女が歩いていた。彼女の名はリリス。短く刈られた黒髪と引き締まった体が、どこかしなやかで野性的な印象を与える。背には頑丈なリュック、腰には刃こぼれした短剣。リリスがこの荒野を歩き始めてから、もう5日が経っていた。彼女の目的地は「赤い風の峡谷」と呼ばれる、伝説の地だ。その場所は砂漠のどこかに隠されていると言われており、そこには世界を一変させるほどの秘宝が眠っているという噂があった。 リリスはかつて、平穏な村で家族と共に暮らしていた。だが、その村は突如として起きた赤い風の嵐によって壊滅した。その日から、彼女の人生は復讐と再生を求める旅へと変わった。赤い風がどこから来たのか、その謎を追ううちに、彼女は風の峡谷の存在を知った。 「あそこにたどり着けば、すべてがわかる。」 それが彼女を突き動かす理由だった。6日目の朝、リリスは古びた地図を広げながら休憩していた。だが、その地図はすでに砂で汚れ、正確さを欠いている。周囲には目印となるものが何一つなく、ただ果てしない砂の大地が広がるばかりだった。 「こんな場所で迷ったら終わりだ。」 リリスは自分にそう言い聞かせ、再び歩き始めた。そのとき、ふいに耳に届いたのは、微かな笛の音だった。 「誰かいる……?」 音が聞こえる方向に歩を進めると、やがて風化した石の柱がいくつも立ち並ぶ場所にたどり着いた。その中心に座っていたのは、年老いた男だった。 「よそ者か。」 男はリリスを見上げながら言った。その声には警戒の色があったが、どこか落ち着きも感じられる。 「赤い風の峡谷を目指しているの。ここから先を知ってる?」 リリスが単刀直入に尋ねると、男は笛を吹くのを止め、じっと彼女を見つめた。そしてゆっくりと口を開いた。 「お前が探しているその峡谷、何があるか知っているのか?」 「……村を滅ぼした風の謎。それを追っている。」 その答えに、男はしばらく黙っていた。そして、深いため息をつくように言った。 「風の峡谷にはたどり着けるかもしれない。だが、それを超える力がなければ、お前も風の一部になるだけだ。」 男の言葉は意味深だったが、リリスには時間がなかった。 「それでも行く。」 彼女の決意を感じ取ったのか、男は砂に埋もれた古い石碑を指差した。 「この柱を越えた先に、風の峡谷の入り口があると言われている。だが、警告はしたぞ。」 その夜、リリスは星空の下で焚き火を囲みながら休んでいた。目を閉じれば、村が赤い嵐に飲み込まれる光景が浮かんでくる。風の轟音、家族の叫び声――そのすべてが彼女を突き動かしていた。 「絶対に止めてみせる。」 小さく呟き、彼女は眠りに落ちた。 翌朝、風の峡谷へと続く細い道にたどり着いたリリスは、突如として吹き荒れる赤い風に迎えられた。目を細め、必死に前に進む。風はまるで生き物のように彼女を押し返そうとしていたが、リリスは一歩ずつ足を進めた。 「これが、すべての始まりなのか……?」 峡谷の奥には、奇妙に輝く赤い結晶が見えた。その結晶から放たれる光が風を巻き起こしているように見える。リリスは短剣を握りしめながら、その結晶に向かってゆっくりと歩み寄った。その瞬間、彼女の周囲に赤い風が渦を巻き、何かが囁く声が聞こえてきた。 「答えを求める者よ……すべてを手に入れる覚悟があるか?」 リリスは短剣をさらに強く握りしめ、静かに頷いた。 「覚悟なら、とうの昔に決めている。」 風がさらに強く吹き荒れる中、リリスは一歩、また一歩と赤い光の中心へ進んでいった――。

静かな家

「私は藁人形なのだろうか」 風が強い夜だった。どこか遠くでドアが軋む音が聞こえる。山奥にひっそりと建つ家は、吹き抜ける風に揺さぶられながらも、静けさを保っていた。家の中では、ひとりの男がロッキングチェアに座り、ぼんやりと窓の外を眺めている。 その家に住む男の名は、大木隼人。40歳。彼は一度も街を出たことがない。山奥の小さな村で育ち、この古びた家でひとり静かに暮らしていた。隼人は何かを待つように窓の外を見つめている。その視線の先には、まばらに生えた木々の間に細い道が続いていた。その道を最後に誰かが通ったのは、いつだっただろう。もう何年も前のことだろうか。隼人の一日は、ほとんど変化がない。朝早く起きて、庭で育てている野菜に水をやる。昼には読書をしながら、手作りのスープをすすり、夜になると星空を眺める。それだけの生活だったが、隼人にとっては十分だった。彼がこの家でひとりで暮らし始めたのは、20代の終わり頃だ。街の生活に疲れ切り、静かな場所を求めてこの家にやってきた。それ以来、誰とも深く関わらず、穏やかな日々を送っている。だが、この夜は少しだけ違った。 午後9時を過ぎた頃、静かな家に小さな異変が起きた。庭の奥から、カサカサと何かが擦れる音が聞こえてきたのだ。隼人は本を閉じ、椅子から立ち上がる。窓越しに庭を見ても、暗闇に包まれて何も見えない。音が気になりながらも、彼は「風のせいだ」と自分に言い聞かせてその場を離れた。しかし、しばらくして再び音がした。今度はもっと近い。 「……誰かいるのか?」 静かな声で呟きながら、隼人はそっと玄関の扉を開けた。冷たい風が吹き込んでくる。庭に足を踏み出し、慎重に音のする方へと進む。そこには、一匹の猫がいた。 猫は、まだ幼いようだった。毛は汚れ、やせ細った体を震わせながら、隼人をじっと見上げている。 「お前……こんなところで何してるんだ。」 隼人が静かにしゃがみ込むと、猫は一歩、また一歩と彼に近づき、やがてその膝の上に前足を乗せた。その動作が、どこか頼るようで、隼人は思わず微笑んだ。 「まあ、少しだけ休んでいけ。」 彼は猫をそっと抱き上げ、家の中に戻った。その夜、隼人は猫にミルクを与え、柔らかいタオルを敷いた箱を用意した。猫は警戒しながらも、やがてその中に収まり、安心したように目を閉じた。 「一晩だけだぞ。」 そう言い聞かせながらも、隼人の心は静かな喜びに満たされていた。翌朝、猫は庭をうろつきながら隼人の後をついて回った。そして気がつけば、いつの間にかその家の「住人」になっていた。それからの日々、隼人の生活は少しだけ変わった。朝、猫が陽だまりで体を伸ばしている姿を眺めるのが日課となり、昼にはその猫と庭を散歩し、夜には一緒に星空を眺めるようになった。 猫が現れてから、不思議と隼人は寂しさを感じなくなった。静かだった家には、今ではかすかな息づかいと小さな足音が響いている。それは、隼人にとって何よりも温かいものだった。「静かな家」と思っていたその場所は、今では確かに「生きている家」になっていた。星がまたたく夜、隼人は猫と並んで窓辺に座り、外を眺めながら静かに呟いた。 「お前が来てくれてよかったよ。」 猫は目を細め、隼人の膝に身を寄せた。そのぬくもりが、隼人の胸に新しい日々の希望を灯していた。

静かなる荒川で起きた殺人事件 第3話

あの老人は一体何者なのだろうか。お茶を飲みながら頭の中を整理する。熱で膨張した思考回路は、限界まで膨れ上がった風船のようだった。どこかで弾けそうな危うさを感じながらも、収束することなく、さらに混乱の渦に引き込まれていく。情報の処理にはまだ時間が掛かりそうだった。 その後、この店の常連らしい客から話を聞くことができた。老人はいつも浴びるように酒を飲んでいて、誰彼構わず話しかけては喧嘩になり、警察の世話になることもしばしばあるという。この界隈では要注意人物として、皆に警戒されているようだった。 私の腕には浅い痣が浮かんでいた。この痣を見るたびに心が沈み、治るまでの間、鬱陶しさがつきまとった。うんざりするほどの嫌悪感に包まれた日々が、終わりなく続いているかのようだった。実にくだらない。私はゴミ捨て場に巣食うドブネズミと変わらない。そんな自分を卑下するような負の感情が頭から離れず、燻っていた。 この一件以来、私はこの街が嫌いになった。酒を飲むなどもってのほかだ。上京して間もない頃の私は、まるで夢の中にいるかのように浮かれた気持ちで毎日を過ごしていた。この街は電車の便が非常に良いことを除けば、特に魅力のない場所だ。今ではそう思っている。私には東京の土地勘が一切なかった。予算の都合で仕方がなかったといえばそれまでだが、実情を知っていたら、この街を選ぶことは絶対にない。 私は河川敷に向かって再び歩き始めた。 待ち合わせの時刻は20時だ。荒川を跨ぐ大きな橋の前の交差点で落ち合うことになっている。どうやら花子よりも早くに到着したようだ。ポケットの中のハンドタオルで汗を拭う。伸び放題の雑草が、四方八方に葉を広げている。我こそ太陽の光を一身に浴びるのだと言わんばかりの生え方だ。周りの個体のことなど考えているわけがない。 私は道路脇に佇む壊れかけのベンチを見つけた。これはおそらく自治体が設置したものではなく、不法に捨てられたもののように見える。躊躇いはあったが、少し疲れたので腰を掛けることにした。ここなら橋を通る車からはよく見えるし、花子も私を見つけることができるはずだ。今夜の天気は曇りだ。雨は降らない予報だが、星が見えない。周囲を見渡し、誰もいないことを確認してから目を閉じた。