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「今夜は星がよく見える」 車内は、わずかな灯りでほのかに照らされていた。40歳の奈々子は、助手席をリクライニングさせ、毛布にくるまりながら外を見上げていた。窓越しに見えるのは、星が瞬く夜空。どこかの郊外の駐車場。エンジンを切った車内はひっそりとしていて、聞こえるのは風の音だけだ。  奈々子は、ここを「家」と呼んでいた。家といっても固定の場所ではない。彼女の家は、黒い軽バンの中だ。狭い車内には、寝具や簡易調理器具、小さな瞑想マットが整然と収まっている。それらは、必要最小限のものでありながら、奈々子の暮らしを形作る大切な道具だった。  以前の彼女は、都内でデザイン会社に勤めていた。締め切りに追われる毎日、オフィスでの長時間労働、そして窓から見えるビル群の夜景――それが当たり前だった。しかし、ある日、突然気づいた。 「私、この生活が心から好きじゃない。」  仕事を辞め、住んでいた部屋を引き払い、奈々子はこの軽バンを購入した。それからの生活は予想以上に自由で、少しの不安と大きな開放感が混ざり合ったものだった。  今日は静かな湖の近くに車を停めている。昼間は近くの道の駅で軽いアルバイトをし、夕方にはスーパーで買った野菜とインスタントスープで簡単な夕食を済ませた。今は食後の瞑想の時間。  奈々子はシートに背を預け、静かに目を閉じた。呼吸に意識を集中し、胸に満ちる空気の流れを感じる。車内の狭さや世間の雑音は、瞑想の中では全てが消え去り、ただ静けさが残る。 「今日もいい一日だった。」  心の中でそう呟くと、不思議と全身が軽くなる気がした。自分の価値を誰かに証明しようとした日々とは異なり、今はただ「いる」ことが大切だと感じられる。  瞑想を終えると、奈々子は後部座席に置いた日記帳を手に取った。最近では、日々の出来事を簡単に記録することが習慣になっている。今日の欄にはこんな言葉を書き込んだ。 「湖の風が冷たかった。でも、空がとても広かった。」  それだけで十分だった。特別なことがなくても、自然と共に過ごす時間が彼女にとって何よりの財産だった。  夜が更け、奈々子は毛布を肩まで引き上げた。車内の狭い空間は、暖かな巣のようだった。日々の小さな工夫がこの空間を快適にしている。毛布の柔らかさ、足元に置いたカーペット、フロントガラスに張った断熱シート――どれも彼女にとっての「家」を形作る大事な要素だ。  眠る前、奈々子はもう一度目を閉じた。これからのことを考えるのは嫌いではないが、今の彼女にとって最も大切なのは「今ここにいる」という感覚だ。それがあれば、明日がどんな日でも大丈夫だと思えた。 「おやすみなさい、世界。」  そう静かに呟いて、奈々子は毛布に包まれたまま深い眠りについた。夜空の星々が静かに彼女を見守るように輝いていた。その中で軽バンという小さな宇宙の中で、奈々子の穏やかな一日はゆっくりと終わりを迎えていた。
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春の等式 第3話

「私は前に進むことができる」 奈緒が会社に到着したのは、その翌朝の9時を少し過ぎた頃だった。フロアに足を踏み入れると、すでに何人かの先輩社員がデスクに座り、静かにキーボードを叩いている。その規律正しい空気に触れると、奈緒は背筋を伸ばし、まるで昨日の疲労を忘れるようにデスクに向かった。 スプレッドシートに記録した自分の発見を整理していると、片山が後ろからやってきた。 「おはよう、奈緒。昨日の残業、結構遅かったみたいだな。」 「はい。でも、やっと意味のあるデータが見つけられました。」 奈緒はそう言って、自分が発見したデータの矛盾と、それがどのように業績不振の原因を示しているかを片山に説明した。 片山は資料に目を通しながら、小さく頷いた。 「いい視点だな。これをもとに、チーム全体で次のステップを進めてみよう。」 そう言って片山は軽く笑みを浮かべた。その表情は、奈緒にとって自分の努力が認められたように思え、心が少し軽くなるのを感じた。 数日後、奈緒は初めてクライアントに向けたミーティングに参加することになった。チームの中で最も若手の彼女に直接の発言が求められることは少ないだろうと高をくくっていたが、会議室に入ると片山が意外な提案をした。 「奈緒、昨日まとめたデータの分析を簡単に説明してみてくれ。」 一瞬、奈緒は目を見開いた。視線が自然と他のチームメンバーに泳ぐが、誰も助け舟を出す様子はない。 「……わかりました。」 奈緒は息を整え、スクリーンに映し出された資料を見ながら説明を始めた。声は少し震えていたが、自分の言葉で話すことを心がけた。データに基づいて導き出された矛盾の原因、それがクライアントの課題の核心にどう結びつくのか。 プレゼンが終わると、会議室はしばし静まり返った。奈緒の心臓は早鐘のように鳴っていたが、その沈黙は長く続かなかった。 「なるほど。鋭い視点だね。」 クライアントの一人がそう言うと、他の参加者も頷き始めた。その瞬間、奈緒の胸には小さな自信が芽生えた。 会議が終わり、奈緒は片山と二人で帰りの電車に乗っていた。疲労感が体中に広がっているが、それ以上に心地よい達成感があった。 「お前、今日のプレゼン、よくやったな。」 片山が不意に声をかけてきた。 「本当ですか?正直、あまり自信がなくて……」 「自信なんて最初はみんなない。でも、実際にやってみると、それが自信に繋がるんだ。今日のクライアントの反応を見ただろう?」 奈緒は片山の言葉に頷きながら、自分の中に少しずつ芽生え始めた変化を感じていた。 「まだまだわからないことばかりですが、少しだけ自分が役に立てた気がしました。」 片山は笑みを浮かべながら奈緒の肩を軽く叩いた。 「それで十分だよ。最初の一歩はそれでいい。」 その夜、奈緒は久しぶりにぐっすりと眠ることができた。翌朝、目が覚めると、窓から差し込む朝日の明るさに思わず目を細めた。 「今日も、少しずつやってみよう。」 スーツに袖を通し、手帳をカバンに入れる。奈緒の中には、昨日までの不安とは違う感覚があった。それはまだ小さなものだが、確かな「進む力」を感じさせてくれるものだった。 奈緒は電車に乗り込み、いつものように揺れる車内で立ちながら窓の外を見つめた。外の景色は変わらない。それでも、彼女の中に広がる世界は確実に変わり始めているように思えた。 「これが私の冒険なんだ。」 そう呟きながら、奈緒はこれからの一日を迎える準備を整えていった。

静かなる荒川で起きた殺人事件 第7話

店主がそっとキャンプ用のランタンの灯りを消すと、周囲は瞬時に暗くなった。ついさっきまで近くを行き交っていた人々も、いつの間にかほとんど姿を消していた。不快なほど騒いでいた連中も、気がつけばいなくなり、あたりは不思議なほど静寂に包まれている。風が吹き抜けるたびに、草が微かに擦れる音が聞こえる。それはわずかな生命の気配を残しつつも、この場所が夜の静けさに完全に飲み込まれたことを示していた。 「私たちもそろそろ帰ろうか」 私は落ち着いた声で囁いた。花子はゆっくりと立ち上がり、レジャーシートを折り畳み、リュックの中にしまい込んだ。そして周囲に落ちているゴミをいくつか拾い、持っていた袋の中に手際よく入れた。 「堆肥の臭いがする」 ふと、鼻を霞める嫌な臭いが風に乗って漂ってきた。私は臭いのする方に顔を向けた。そこには太目のワークパンツを履いた50代くらいの男が立っていた。私と花子は数秒の間、男の濁った瞳に捉えられ、硬直していた。死体にも似た生気を感じさせない不気味な表情が、私たちの脳裏の奥を射抜いていた。彼が一歩、また一歩と、こちらに向かってゆっくりと足を進めるたび、夜の静寂を裂くように靴底が小さく音を立てた。 「橋の上まで戻りましょう。車の通りが多いし、コンビニもあるから」 私はその場を飛び出し、橋の上を目指して駆け出した。胸の奥で膨らむ嫌な予感が、心臓の鼓動に重なるようだった。花子も私の背後で、息を切らしながら追従している。男は方向を変え、私たちを逃がさないと言わんばかりにスピードを上げた。不自然なその動線は、間違いなく私たちとの最短経路を辿っている。そして砂利が擦れる大きな音とともに、花子は悲鳴を上げた。 「痛い、痛い」 花子は地面に蹲り、足首を押さえていた。無理に立ち上がろうとしているが、その様子と表情からして、前に進むのは困難だ。男は無表情を装いながら、じわじわとこちらに近づいてくる。瞳孔は病的なほど開いていて、暗闇の中で獲物を狙う猫のように、こちらをじっと見据えている。男の息は荒く、唇は激しく震えていた。 私は側にある樹脂ベンチに踵を勢いよく振り下ろした。プラスチックの座面は激しく割れ、破片が周囲に散乱した。その中から細長く振り回しやすいものを手に取り、持ち手となる部分をタオルで巻いた。 「これ以上は近付くな、刺すぞ!」 私は花子を庇うようにして立ち、男の目を見て強く睨みつけた。男は一瞬、怯んだような素振りを見せたが、なおも私たちの方へと歩みを進めてくる。ほんの数秒のうちに、男は私たちの目の前、手が届くほどの距離まで迫ってきた。 男は一瞬の隙をついて、花子の足首を掴んだ。花子は目を閉じ、恐怖に包まれたまま丸くなり、動くことができずにいた。私は手に持っていたベンチの破片を男の腹部に突き刺した。男は叫び声を上げ、血まみれの腹を押さえながら悶え苦しんでいる。ベンチの破片は折れ、私の手元も血だらけになった。この血は男のものではなく、私自身の手から流れ出た血だ。破片はタオルで覆われていたが、鋭利な部分が左手の皮膚と肉を深く切り裂いていた。この破片はもう役には立たないし、私の手が無事では済まなくなる。花子は立ち上がる力を完全に失っている。しばらくはこの状態のままだろう。私たちを助けてくれる人は居ない。私が今この男にとどめを刺すしかないのだ。周囲には武器となるものが見当たらなかった。どこにでもありそうな大きめの石ですら、近くには転がっていない。 私は壊れたベンチのフレームを抱え込み、そのまま男に向かってのしかかるように飛び込んだ。体勢は崩れ、致命的な一撃には至らなかったが、私は男の上に覆い被さり、無我夢中で男の顔を殴り続けた。拳が男の肌に当たるたび、怒りと恐怖が渦巻き、私の意識はただその瞬間に固定された。やがて間もなく男は動かなくなった。 数分もしないうちに、コンビニの駐車場でたむろしていた若い男女のグループが、私たちの元へとやってきた。ひとりの女がすぐに状況を把握し、警察に通報してくれた。 「もう大丈夫ですよ」 その言葉は、私の心に一瞬の安堵をもたらした。男は息をしているものの、倒れたままの状態で、時折呻き声を漏らしている。男の鼻は不自然に横に曲がり、止まることのない鼻血が周囲の地面を赤く染め上げていた。おそらく鼻骨は砕け散っている。 警察に事情を説明し終える頃には、夜の蒸し暑さも次第に和らいでいた。あの男には前科があり、暴行を受けた被害者はすでに何人も居たのだそうだ。私たちは間一髪で助かったのだ。 その後、花子と私は救急車で病院へと運ばれた。花子は軽い擦り傷を負っただけで、歩くことにもまったく支障はないように見えた。しかし私の方は違った。左手に深い切り傷を負っており、縫合手術を要するほどだった。奇妙なことに、あの河川敷ではあれほどまでに切り裂かれた手が痛みを感じなかった。それが病院に着いた途端、急にその傷が焼けるように疼き出した。手術は驚くほどあっけなく、気が付いたら終わっていた。医師は再来週に抜糸のため再び訪れるように告げ、入院は不要だと言った。麻酔が効いているので、今は痛みが落ち着いている。念のため病院の中にある薬局で、痛み止めを処方してもらった。 スマートフォンの画面をぼんやりと見つめると、父からのメッセージが届いていた。病院には緊急連絡先として、父の電話番号を伝えていた。まずは自分が無事であることを父に知らせなければならないと、頭の片隅では理解していたのだが、その思いとは裏腹に、太郎と話したいという衝動が、心の中で強く渦巻いていた。私は太郎に電話をかけた。遅い時間にもかかわらず、太郎はすぐに電話に出てくれた。太郎の声を聴いた私は、心の奥に張り詰めていた刺々しい何かが、一瞬にして消えていくのを感じた。 「こんな夜更けにごめんね。どうしても、今すぐに話したいことがあって」 普段の太郎は、決して夜更かしをしない。日が変わる前には必ず眠りに就いている。 「どうしたのさ、こんな時間に守子が電話をかけてくるなんて。何かあったの?」 太郎の言葉には、驚きと少しの困惑が混ざっているように感じられた。太郎は私の些細な変化には気付かない。仕事での辛い出来事に心を痛めているときや、髪型を変えた際にも、太郎は何も言ってくれない。その無関心さに腹が立ち、少し前に喧嘩になったばかりだ。今の私は血液の半分が荒川に流れ出てしまっている。鈍感な太郎でもさすがに何か変だと思ったのだろう。 「私の仕事が決まるまで、太郎の家に住まわせてほしいの」 私は端的に要件を伝えた。 「分かった。いつでもおいで。明日からでも構わないよ」 太郎は優しく答えた。私が話したかったことはこれだけだ。今は仕事について話すべきときではない。まずは家に帰って休むことが先決だ。 病院から私の住むアパートまでは、タクシーで数分だ。太郎は私の手を見て何と言うだろうか。今すぐにでも写真を送って見せてやりたい。きっと心配してくれるだろう。たまには甘えるのも悪くはない。 私は明日、この街を出ていくことに決めた。

静かなる荒川で起きた殺人事件 第6話

「せっかくの夏の夜だというのに、私の心は乾いたままよ」 花子は不機嫌そうに呟いた。その口調には、私に対する不満が色濃く滲み出ていた。花子の目はどこか遠くを見つめ、何かを期待しているようだったが、その期待が叶うことはない。 「今の彼氏とはうまくいってないの?」 花子は一瞬、驚いたような顔をした。確か梅雨が明ける頃に、新しい彼氏ができたと、嬉しそうに話していたはずだ。そのきっかけは花子自身が主催した飲み会だったと思う。花子は人間関係を巧みに築き、交友の輪を広げる才能に長けている。出会いの数がとにかく多く、男を探す場に困ることがない。 「別に不満はないけどね。ピンとこないというか、魅力に欠けるというか。どうしても心の底から愛せないのよ」 「浮気はよくないよ」 花子はいつも見切りが早い。場当たり的な気まぐれで決断しているようにも見えるのだが、僅かながらに冷静な判断が宿っているかのようにも思える。おそらく彼女は、自身の若さと行動力さえあれば、男女の関係において困ることなどないと確信しているのだろう。彼女は決して、いわゆるチヤホヤされるようなタイプではない。しかし私と異なり、男たちの懐に自然に入り込む術を本能的に心得ている。 「実はね。私は今、3人の男と付き合っているの」 花子は少しバツが悪そうな顔をした。 「どういうことよ」 以前にも似たようなことがあった。 「私には本命がいるわけじゃないのよ。時間とともに私の気持ちが変わるかもしれないけど、今のところはさっぱり。惰性で関係を続けているのよね。何もかもが面倒くさいというか。夜の営みですら、心ここにあらずって感じ。多少のサービスはしてあげるけどね。私は魂が抜けた人形なの」 花子は男が途切れない。色欲が強い方ではあるが、刺激を求めているわけではなく、恋にのめり込みたいわけでもない。花子は弱者である自分を養えるだけの十分な収入があり、自分を責め立てない大樹のような男を欲している。そして何より、自身の劣等感を刺激しない、何らかの致命的な欠点のある男を探している。 「私にはお金持ちになりたいという気持ちはないの。ある程度の収入があればそれで満足なの。結婚してもアルバイトで多少は働くつもりよ。私は働くこと自体が好きではないけどね。そこは我慢するわ。ママにこの話をすると、それだと今までの生活水準を維持できないって言うのよ。だから私は稼ぎのいい男を探しているの」 花子は投げやりな口調で話を続けた。 「うちのパパは高校を卒業した後、大企業の工場で働き始めたの。今は総務部の副部長を務めていて、東大や京大を出た部下がたくさんいるのだそうよ。もちろん、自分の能力が部下よりも上だとは思ってないわ。私と同じくらい算数が苦手だしね。お世話係のような付き人がいて、仕事のほとんどはその人に一任されているらしいの。肩身が狭いといつも嘆いているわ。でもそのおかげで、お母さんがパートでも、住んでいる場所が中野区でも、それなりにいい暮らしができたのよ」 花子は、頭の良い人間に対して好意を抱かない。相手の方が格上だと察すると、まるで自分を隠すように距離を置いてしまう。その反応の背後には、彼女の中に潜む微妙なコンプレックスが影を落としている。知性は花子にとって重い鎖となり、心の奥に引け目を感じさせる要因になっている。花子は新卒で入社した会社をわずか一年足らずで辞めてしまった。人材派遣サービス業の営業職として、花子は多くの人とのやり取りを同時にこなす日々に身を置いていた。その中で、自分の限界を痛感する瞬間が訪れたのだ。頭の中で複雑に絡み合う情報や人間関係の中で、花子の頭はそれらを処理しきることができなかった。そして徐々に自らの力不足を認識し、その思いは次第に強い劣等感へと変わっていった。 花子がどのような男と付き合おうが構わないし、さしたる興味もない。今の彼らも、秋の訪れとともに似たような別の誰かに取って代わられるのだろう。季節が変わるたびに、花子の無機質な恋心もまた移り変わっていくのだ。 「守子ちゃんは順調そうね。私は太郎のことが好きになれないけどね。今でもあいつに声を掛けなければよかったと後悔しているわ。あの日の休憩室には、他に丁度いい男が居なかったのよ。運が悪かったわね」 私と太郎は花子が主催した飲み会で知り合った。急遽参加できなくなった男の代わりに、休憩室でコーヒーを飲んでいた太郎が呼ばれたのだ。太郎は花子が好むタイプにはほど遠く、どこか頭の堅い印象を漂わせていた。どの方面から見ても花子とは噛み合わないように思えた。太郎はあまり綺麗とは言えない雑然とした店内に珍しさを感じたのか、周囲を見回しながら、落ち着かない様子を見せていた。まるで色を失った風景の中にぽつんと佇む花のようで、周囲との調和を欠いているかのようだった。 「最近はあまり会っていないのよ。引け目を感じるようになってしまったの。太郎は私と違って、頭が良いし仕事もできる。いつも私の話を聞いてくれて、私の気持ちにも寄り添ってくれるけれど、それが逆に辛いのよ。私は太郎に相応しい女ではないの」 たこ焼きを完食した花子は、何本目か分からない缶チューハイの残りを一息に飲み干した。花子の視線はどこか遠くへと向かい、心の奥深くに秘められた負の感情が、静かに揺れているように感じられた。 「あいつは私たちのことを見下していると思う」 花子は横を向いたまま低い声で言った。 「そんなことは絶対にないわ。親御さんは私のことをあまり良く思っていないみたいだけどね。太郎は他人を見下して優越感に浸るような悲しい人間ではないのよ。私のことを大切に思ってくれているわ」 花子は太郎のことが好きではなかった。太郎はその立ち振る舞いから、育ちの良さが一目瞭然だった。付き合い始めた後に知ったのだが、太郎はそれなりに名のある国立大学を卒業している。本来、私とは交わることのない世界の住人だ。太郎が私に興味を持ってくれたことが、今もなお不思議でならない。 「俺と一緒に住まないかって言われているの。月末までに今のアパートを退去しなきゃいけないことを伝えたら、丁度いいタイミングだって」 私には貯金がなかった。当然のように家賃を滞納し、その果てに待っていたのは、冷徹に下された強制退去の通告だった。その紙切れ一枚が、私の居場所を容赦なく奪い去る。それまで築いてきた小さな世界が突然なくなってしまう。薄い壁越しに隣人の生活音が響く狭い部屋も、いつしか私の身体に馴染んでいたその空間も、すべてが私の手の中から滑り落ちていった。 「太郎の家は1LDKの間取りなの。二人で住むにはちょっと窮屈かもしれないけど、まあ、ストレスなく暮らしていけるくらいの広さはあるかな。私も将来的には一緒に住みたいって思っていたのよね。私は太郎のことが好きだから。太郎だって私のことを心の底から愛してくれているからこそ、そう言ってくれたのだと思う」 少し苦笑いを浮かべながら、私は話し続けた。 「相思相愛で幸せな気持ちでいっぱいなのは確かよ。だけどね、今こんな状態で一緒になるべきではないと思うの」 私には妙な拘りがあった。 「一緒に住んでしまえばいいじゃない。どうせタダで住まわせてもらえるのに」 太郎は会社が借り上げた社宅に住んでいる。太郎が何かを手に入れるために苦労する姿など到底想像できない。太郎の生活は、あたかも見えないレールの上を滑らかに進んでいるかのようで、そこに困窮の影など微塵も感じられなかった。「仕事がつまらない」が口癖になってはいるが、私の望んでいるものがそこにはすべてあったのだ。 「無職になって、家賃も払えなくなって、どうしようもない状態なのよ。惨めな思いでいっぱい。私はどうしても東京で自立して生きたいのよ。誰の力も借りたくないの」 もしも私がこの状況で太郎の家に転がり込むようなことがあれば、周囲の誰もが、そして何よりも私自身が、私を「ダメな人間」と断じるだろう。その視線、その評価、その冷ややかな呟きに包まれながら生活することなど、到底耐えられる気がしない。そんな屈辱にまみれた暮らしを送るくらいなら、路上で過ごす方がまだ誇りを保てるように思えた。ここだけは譲れないのだ。どんなに追い詰められても、この一点だけは、私の自我の中にある最後の守るべきボーダーラインとして残り続けるのだ。 「守子ちゃんは変なところで頑固よね」 親の惜しみない援助を受けながら、軽やかに日々を過ごしている花子には、私が抱えているこの漠然とした不安や、焦燥感の正体を理解することなど到底できはしないだろう。再就職が叶ったとしても、その先に待つのは、決して楽ではない厳しい生活だ。新しい服を買いそろえる余裕など夢のまた夢で、太郎とのデートでは、いつも彼が財布を開くことになる。それを思うたび、何とも言えない劣等感が胸に広がる。 目の前に広がる荒川。この川を越えた先には、少しは楽に呼吸ができるような暮らしがあるのかもしれない。けれど、私は東京を離れることだけはどうしても受け入れられない。東京という空間が私に何を与え、何を奪おうとも、私はその中で生きたいと思っている。どんなに治安が悪かろうと、駅からどれほど遠かろうと、東京都内に住み続けることだけが、私が自分自身を敗者だと認めないための、ただ一つの証明であり、唯一無二の拠り所なのだ。

静かなる荒川で起きた殺人事件 第1話

私は踵を引き摺りながら、河川敷へと続く道を歩いている。惨めな境遇が頭から離れず、憂鬱な気分だ。夏の熱波のせいだろうか。腐敗した卵の臭いが鼻に纏わりつく。このあたりの飲食店は、小綺麗とは言い難い。駅前の再開発が進み多少はマシになったが、強烈な負のイメージを払拭できず、業界大手のデベロッパーはついに撤退してしまった。この街は本来、私のような若い女が住むべき場所ではないのだ。 「久しぶりじゃないか。たまにはうちの店にも顔を出してくれよ。常連の面々も心待ちにしているよ」 この男は路地裏に佇む居酒屋のオーナー兼店長だ。ガラガラとした耳障りの悪いこの男の声を聞く度に、私は不快な気持ちになる。色褪せた黒のエプロンは、水をかぶったように濡れている。店名だと思われる何かの文字は、擦れて読めたものではない。男は振り向いた私と目が合ったことを確認して、軽く腕を上げた。 「私がこの街でお酒を飲むことはないわ。心に強く誓ったの。自分のプライドを守るために、この街では絶対にお酒を飲まないと決めたのよ。何が起ころうとも、私の信念は揺るがない」 普段の私ならこの道を避けていたはずだ。今の私の脳の表皮には、黒いヘドロがこびり付いている。もちろんそんな病気を患っているわけではない。 「相変わらず元気そうだね。安心したよ」 男は内心の呆れを隠すようにして、表情を崩さずにそう告げた。そもそもこの男と私は仲が良かったわけではなく、私は単なる常連客の一人にすぎない。互いに友達とすら思っていないし、名前すら知らない間柄だ。私の記憶からはもうすぐ消えることだろう。 私は2年前のトラブルのことは忘れようとしている。 金曜日の夜、予定もなく彷徨うようにこの店を訪れた私は、独りぼっちで粗悪な赤ワインを手にしていた。その液体は、消毒液を思わせる刺々しい味わいをまとい、舌の上で鋭く主張する。コンビニで売られている安酒にすら及ばないその劣悪さに、ツンと鼻を突き刺すアルコールの匂いが輪をかける。これほどまでに無遠慮な飲み物は、工業用エタノールを薄めたものではないかとすら思わせるほどだった。 それでも私は、どこか諦めたように、皿の上のポテトスティックを指でつまみ、その澱粉質のわずかな甘味を頼りに、少しずつ、ゆっくりとそのワインを胃の中へ送り込んでいった。 この店ではたくさんの男が私に声を掛けてきた。もちろん彼らにとっては、若い女であれば誰でも構わないのだ。そんなことは分かっている。この地球上には35億人もの女がいる。たまたま側に居たのが私で、唯一無二の私という存在が求められているわけではない。 私はその日も店内にいた数人と共に、非建設的で無益な会話を楽しんでいた。私は富山県から上京したばかりの純朴で無知な女を演じていた。演じるといっても、それは決して嘘偽りのない事実であり、私の生き様と現実そのものだ。お馴染みの草臥れたブラウスは、中学生のときに買ったものだ。胸元には蝶々結びの不思議な紐が付いていて、ワンポイントのアクセントになっている。この紐は機能的には一切の意味を持たないのだが、男の狩猟本能をよく刺激する。なぜかは分からないが、この街の男たちにはすこぶる受けがよかった。私には新しい服を買う金銭的な余裕はない。しかしながら、限られた手持ちのアイテムを工夫して着回し、ローカルマーケティングというやつを実践しているつもりだ。広告的なセンスのない人間にWebデザイナーは務まらない。 お腹が膨れてしばらく経った頃に、白髪の老人が倒れ込むようにして私の隣に座った。この街ではよくあることだ。私は驚きもせず、そのままワインを飲み続けた。すぐに別の誰かが私に話しかけてくるだろう。そう思っていた。 「お前は駄目だ。流れている」 私はワイングラスを片手に持ったまま、この老人の口元を見て、歯がないことに気付いた。 「そうね。私は流れているかもしれないわね」 私には酔い潰れた老人を介抱してやれるだけの優しさや余裕は持ち合わせていない。自分では性格が悪くはないと思っているが、お人よしではないことも確かだ。私は狭い店内を見回して、避難先を探すことにした。幸いにも、年齢が近そうなスーツ姿の男の二人組を見つけることができた。私はさりげなく目を合わせ、顎で合図を送った。彼らは瞬時にその意図を理解し、微笑み返してくれた。この老人は耳が遠いらしく、声が異様に大きかった。その声は周囲の雑音を突き破るように響き渡る。着ているシャツはところどころに穴が開き、脇から背中にかけての大部分が黄ばんでいた。この老人はこの辺りに住むホームレスなのだろうか。私はなぜこの老人と会話をしているのだろうか。周囲の誰から見てもおかしな光景だ。

終わりなき日々の始まり

「何も変わらない毎日だ」 朝、陽が昇る前の静かな時間帯。42歳の高橋秀明は、コンビニで買ったコーヒーを片手に工事現場へと向かう軽トラックを運転していた。助手席には使い込まれたヘルメットと工具袋、そして古びた釣り竿が無造作に置かれている。 秀明はこの釣り竿を常に車に積んでいる。いつでも、どこでも――仕事が早く終われば、そのまま海に向かうためだ。釣り場に立つときだけ、彼の中で何かが静かに整うような気がしていた。 現場に着くと、すでに数人の作業員が準備を始めていた。皆、黙々と機材をチェックしたり、ブルーシートを敷いたりしている。秀明もその一員としてヘルメットをかぶり、安全帯を装着した。 「おはようございます、リーダー。」 若手の作業員が声をかけてきた。秀明は軽く頷くと、指示を簡潔に伝える。今日の仕事は、建設中のビルの基礎部分のコンクリート打設だ。時間との勝負になる作業だが、秀明にとってはいつものことだった。 作業が進む中、秀明はふと空を見上げた。空は青く澄んでいて、遠くには白い雲が流れている。その一瞬の景色に、彼はなんとも言えない懐かしさを覚えた。 釣りを始めたのは、10年以上前のことだった。当時、秀明は仕事と家庭の板挟みに苦しんでいた。家族と過ごす時間を減らし、現場での責任ばかりが増えていく日々。そんなとき、同僚に誘われて初めて釣り竿を握った。 その日、海に立つ彼の心は初めて軽くなった気がした。波の音と風の匂い、そして静かに糸を垂らすひととき――それは、秀明にとって唯一の「無駄な時間」だった。仕事でも家庭でもない、自分だけの時間。それが彼にとっての釣りだった。 昼休憩になり、秀明は現場の隅で弁当を広げた。若い作業員たちはスマートフォンをいじりながら談笑しているが、秀明は遠くの空を見つめていた。 「リーダー、最近どうっすか?釣れてます?」 隣に座った若手の一人が尋ねた。 「まあまあだな。先週、40センチの黒鯛が釣れたよ。」 そう答えると、若手は目を輝かせた。 「マジっすか!それって結構デカいんじゃないですか?」 「まあな。でも、釣りってのは大物を釣るだけが楽しいわけじゃないんだよ。」 そう言って、秀明は静かに笑った。その言葉の意味を、若手がどれだけ理解したのかはわからない。だが、秀明にとって釣りは、大物を狙うためだけのものではなかった。 夕方、作業が無事に終わると、秀明は軽トラックに乗り込んだ。今日も海に行ける時間はなさそうだが、釣り竿が車にあるだけで、どこか心が落ち着いた。 家に帰ると、妻が夕食を用意して待っていた。食卓には彼が釣った魚を使った煮付けが並んでいる。 「今日も無事だったの?」 妻がそう聞くと、秀明は「まあな」と短く答えた。そのやり取りは、何年も変わらない彼らの日常だ。 夕食後、秀明は自分の部屋で釣りの道具を手入れしながら、明日もまた同じ日々が続くことを思った。それでも、その日々の中にほんの少しの余白があれば――波の音と糸の先にある静けさを想像できるなら、それで十分だと感じていた。 夜の静寂の中で、彼は道具箱の中のルアーを一つ手に取り、静かに微笑んだ。それは、彼の中で確かに存在する小さな自由の象徴だった。

砂上に描く未来、海風が削りゆく彼方へ

「砂が舞っている」 2050年、日本。気候変動や人口減少、終わりの見えない経済不況に直面する中、史上最年少で内閣総理大臣に就任した佐伯隆一は、多忙な日々を縫って自らの趣味である陶芸に没頭していた。土に触れることで得られる感覚と、轆轤(ろくろ)を回すリズムは、彼にとって唯一の安らぎであり、混沌とした政治の世界から逃れるための小さな隠れ家だった。 佐伯は幼少期から器用な手先を持ち、祖父の影響で陶芸を始めた。大学時代に政治の道を志してからも、土に触れる時間だけは大切にしてきた。だが、総理大臣となった今、その静かな時間は限られている。それでも夜半、閣僚会議が終わると執務室の片隅に設えた小さな陶芸スペースに向かい、轆轤を回すことで疲弊した精神を癒やしていた。 ある日、佐伯は少年時代に訪れた山陰地方の陶芸家の窯を訪れることを思い立つ。その地は、彼が最初に「土の声」を聞いた場所であり、素朴な釉薬が示す微妙な色彩の美しさに心を打たれた記憶が蘇る。少年時代に作った小皿がまだ窯元に保管されていると知り、彼はこっそりその地を再訪する。 しかし、訪れた窯元では、かつての職人たちは姿を消し、後継者不足による閉鎖の危機に瀕していた。佐伯は陶芸の世界に戻りたいという衝動に駆られるが、それは政治を投げ出すことを意味していた。彼は、国民の未来を守る政治家としての使命と、土に触れることでしか得られない自身の心の平穏との狭間で苦悩する。 土に触れるたびに佐伯は自問する。自らの手で形作る器のように、日本の未来を自らの手で作り出すことができるのか、と。そして、彼が政治と陶芸の狭間で見出した答えは、誰も予想しなかった形で国家の運命を動かしていく。 佐伯隆一が総理大臣に就任したのは42歳のときだった。日本史上最年少の総理として、国内外の注目を一身に集めた彼の背負う課題は膨大だった。気候変動による度重なる災害、高齢化社会の影響で急激に縮小する経済規模、そして国際的な政治バランスの中で揺れ動く国家の独立性。これらを一挙に解決することを国民から期待された彼は、まるで限りなく高く積み上げられた砂山の上に立つような心地だった。 政治の最前線に立つ彼の日々は、時間に追われ、複雑な利害関係を調整するための応酬に満ちていた。昼夜を問わず叩き起こされる電話、途切れることのない閣僚会議、そしてどんなに疲れていようと要求される冷静な判断。だがその忙しさの中で、佐伯は自分自身を失わないための小さな灯を持っていた。それが陶芸だった。 佐伯の陶芸への愛着は、幼少期の記憶に深く根差していた。祖父の家の庭にあった小さな窯が彼の最初の陶芸体験の場だった。指先で土を形作る感触、轆轤の回転に身を委ねるリズム、そして焼き上がった器の微妙な光沢。幼い佐伯にとって、陶芸は単なる趣味を超えた、世界との接点だった。土に触れる時間は、彼の中で揺れ動く感情を沈め、平穏をもたらしてくれたのだ。 総理官邸の片隅にある陶芸室。就任後も彼はその趣味を手放すことはなかった。官邸の片隅に設えた陶芸室には、轆轤や粘土、釉薬が整然と並べられていた。その空間は彼にとって、政策や利害関係に縛られる日常とは異なる自由な時間を提供してくれる場所だった。轆轤を回しながら、彼は時折、思考を整理する。土が轆轤の回転に応じて形を変えていく様子を見つめながら、国家という巨大な器をどう形作ればいいのかを考える。 しかし、その夜の時間も限られていた。日付を跨いだ閣僚会議が終われば、陶芸室に向かう体力も残されていない日も多い。佐伯は、どこかに「土の声」が響かなくなりつつある自分に気づき始めていた。それでも、政治の中で得ることのできない実感を、土から取り戻そうと必死だった。 ある日、閣僚会議での激論の後、佐伯はふと手元の書類から顔を上げ、机の端に置かれた陶器の小皿に目を留めた。それは幼いころに祖父とともに訪れた山陰地方の窯元で作ったものだった。その素朴な造形と不完全な釉薬のかかり具合には、子供だった自分の拙さと純粋さが刻まれていた。いつの間にか、その窯元を再訪するという考えが頭をよぎった。 週末、厳重な警備を最低限に留め、佐伯はその窯元をこっそり訪れた。しかし、彼を待ち受けていたのは衰退の影だった。職人たちは高齢化し、後継者は見つからず、窯元は閉鎖の危機に瀕していた。土とともに生きる人々の暮らしが消えつつある現実に直面した佐伯は、深い無力感を覚える。 その夜、宿に戻った佐伯は、持ち帰った粘土で小さな茶碗を作り始めた。轆轤を回す手は確かだったが、その指先から生まれる形にはどこか緊張がにじんでいた。彼は土を握りながら思った。政治という形のないものを作り上げるのと、土を形にするのとではどちらが難しいのだろうか、と。 陶芸に没頭する中で、佐伯の心に一つの考えが浮かび上がる。日本という国家の未来を、土を焼く炎の中で見つめ直すことができないか。彼は陶芸を通じた地域活性化プロジェクトを提案し、全国の職人たちを結びつけるネットワークを構築することを思い立つ。それはただの文化振興にとどまらず、失われつつある職人技術を国家の誇りとして復興させる挑戦でもあった。 一方で、政治と陶芸の狭間に揺れる彼の葛藤は深まるばかりだった。轆轤を回すたびに問い直す。国家の未来を形作るとはどういうことなのか、そして自らが総理大臣という役割を超えて、一人の人間として何を残すべきなのか、と。その先に待ち受けている答えは、彼が焼き上げる器の中に、そして日本という国の未来の形の中に秘められている――。

川べりの夏休み

「悠斗!ちゃんとお昼までに帰ってくるのよ!」 母の声が背中に届いたが、悠斗は「はーい!」とだけ答えると、自転車に乗り込んでペダルを漕ぎ出した。目的地は、家から15分ほどの場所にある川べり。悠斗はこの夏、自由研究で「川の生き物を観察する」というテーマを選んでいた。理由は単純だ。毎年夏になると、彼はこの川で遊びながら、魚や虫を捕まえるのが大好きだったからだ。 「研究って言うけど、遊びと何が違うんだろうな。」 川に到着すると、彼はリュックサックからノートと鉛筆、そして虫取り網を取り出した。川の流れは穏やかで、水面が太陽の光を受けてキラキラと輝いている。悠斗はその眩しさに目を細めながら、川沿いの茂みに目を凝らした。まず目に入ったのは、川岸の草むらを忙しそうに動き回る小さなカエルだった。 「よし、まずはお前だ!」 悠斗はそっと近づき、手で掴もうとしたが、カエルは悠斗の気配に気づいてピョンと飛び跳ねた。 「あー、待てよ!」 笑いながら追いかける悠斗。結局カエルは捕まえられなかったが、その姿をじっくり観察することができた。ノートを開き、「小さな緑のカエル。指先くらいの大きさ。動きが速い。」と書き込む。 次に目を引いたのは、浅瀬で泳ぐ小さな魚たちだ。悠斗は川に足を入れ、そっと網を差し出した。数回の挑戦の後、ついに網の中に小さなハヤが入った。 「やった!」 透明なビニール袋に水を入れて魚を入れると、その細かい動きに見とれてしまった。魚の模様や尾の形を観察しながら、ノートに絵を描き込む。 「ハヤ。体は銀色で細長い。水の中で素早く動く。」 彼はそれを書き終えると、魚をそっと川に戻した。 川沿いをさらに歩いていると、悠斗は草の陰に大きなトンボを見つけた。 「おお、これはオニヤンマか?」 そっと近づき、手で捕まえるのは難しいと判断して網を使うことにした。数回挑戦した末、ついにトンボを捕まえることができた。 「すごい……こんなに大きいの初めて見た。」 トンボをじっくりと観察し、その黒と黄色の模様や羽の透明感をノートに書き記す。 「オニヤンマ。体長は手のひらくらい。羽は透明で、体には黒と黄色のしま模様。」 トンボを自然に戻すと、悠斗はしばらくの間その飛び去る姿を見つめていた。お昼近くになり、悠斗は川べりの大きな石の上に座った。リュックから水筒を取り出し、一口飲むと冷たい水が体にしみわたる。 「今日は結構いい観察ができたな。」 ノートを見返しながら、悠斗は満足そうに笑った。研究という名目で遊んでいるようなものだったが、自然の中で触れ合う生き物たちとの時間は彼にとってかけがえのないものだった。 家に帰ると、母が玄関で待っていた。 「おかえり。どうだった?」 「すごく楽しかったよ!見て、今日観察したやつ!」 悠斗はノートを見せながら、川での出来事を一生懸命に話した。母は彼の熱心な様子に目を細めながら頷いた。 「それなら、今度お父さんに手伝ってもらって、もう少ししっかりした観察記録にしてみたら?」 「うん!もっといっぱい調べたい!」 その夜、布団に入った悠斗は今日の出来事を思い出していた。自然の中で見た生き物たちの姿や、風の音、水の冷たさ。それらすべてが彼の心に刻まれていた。 「明日もまた行こう。」 そう思いながら、悠斗はゆっくりと目を閉じた。外では、川の流れが静かに続いていた。