ウルフリーは、文芸を愛するアマチュア・プロ作家のための、純文学、大衆小説、エッセイ、論考、詩の投稿サイトです。
「私は会計士だ」  四月の朝。霞がかった街の空気を切り裂くように電車が走る。小さな窓越しに見える街路樹には、名残の桜が風に揺れている。22歳の奈緒は電車の中でスマートフォンをいじりながら、揺れる車内で足を踏ん張って立っていた。画面にはカレンダーアプリが開かれている。そこに表示されるのは、彼女の新しい職場での最初の一週間の予定。会議、トレーニングセッション、歓迎ランチ――分刻みのスケジュールが画面を埋め尽くしている。 「会計士ってこんなに忙しいものなのかな」  奈緒は心の中でそう呟き、電車の窓に映る自分の顔を見つめた。スーツを身にまとったその姿は、昨日までの自分とは少し違う気がした。大学生活の延長のようだった日々が、まるで昨日突然断ち切られたかのような感覚に襲われる。  奈緒はこの春、四大監査法人の一つに入社した。大学時代に取得した公認会計士の資格を活かし、企業の財務構造を改善するコンサルティング業務に従事することになる。将来性があり、社会的なステータスも高い職業だ。それに、両親や友人たちもその選択を誇らしげに受け入れてくれた。  だが、奈緒の胸にはまだ言葉にできない不安があった。 職場のエントランスは、大理石の床が磨き上げられ、壁には巨大なロゴマークが掲げられていた。その洗練された雰囲気に圧倒されつつも、奈緒は深呼吸をして自分を落ち着かせた。  初日のオリエンテーションが始まると、同じように緊張した面持ちの新入社員たちが集まっていた。奈緒はその中に混じりながら、自分の胸の高鳴りを押し殺した。講師が壇上で会社の歴史や理念について語る声が、どこか遠く感じられる。 「この中で、何人がここで生き残れるんだろう」  隣に座った同期の女性が、奈緒にだけ聞こえるように小声で言った。その言葉に一瞬驚いたが、奈緒も同じ疑問を胸に抱えていることに気づいた。 「何があっても、頑張ろうね」  そう言って、彼女は微笑んだ。その笑顔に少しだけ救われた気がした奈緒は、微かに頷いた。  数日後、奈緒は初めてのプロジェクトに配属された。クライアントは大手製造業の企業。業績不振に陥ったその会社の財務データを分析し、改善案を提案するのが奈緒たちのチームの役割だった。  膨大な数字が並ぶスプレッドシートを前に、奈緒は早速頭を抱えた。一つ一つの数値は正しいはずなのに、それらが示す全体像が何か噛み合わないように思えた。 「ここが問題だ」  先輩コンサルタントの片山が、奈緒の画面を覗き込みながら指摘した。その指摘は的確で、奈緒には思いつきもしなかった観点だった。 「数字は嘘をつかない。でも、その数字をどう読むかが重要なんだ」  片山の言葉は、奈緒にとって痛いほど核心を突いていた。今までは単純に「正解を出す」ことが全てだと思っていた彼女にとって、その言葉は新しい世界を示すものだった。 その日の帰り道、奈緒はオフィス街の夜景を見上げながら歩いていた。高層ビルの窓から漏れる明かりが、空に浮かぶ星よりも鮮やかに輝いている。 「これが、私が選んだ世界か……」  足元を見つめると、革靴のつま先が少しだけ擦り減っていた。それは、彼女が新しい一歩を踏み出した証でもあった。  奈緒はスマートフォンを取り出し、スケジュールアプリを再び開いた。そこに並ぶ予定は依然としてぎっしり詰まっている。だが、その中に彼女は小さな希望を見つけた気がした。 「私はここで、自分の居場所を見つけるんだ。」  その決意を胸に抱き、奈緒は再び歩き出した。彼女の中で、新しい春の風が吹き始めていた。
 1
 1
 0

静かなる荒川で起きた殺人事件 第5話

橋から川沿いに降りると、いくつかの屋台が並んでいた。ここで商売をしている者たちは、正当な許可を得ずに、闇に紛れて酒や軽食を売っている。地元の住民なら誰もがその実情を知っていて、夏になると多くの人が集まる。一級河川である荒川を眺めながら、小さな罪悪感をおかずにして、しっぽりと一杯やるのが楽しいのだ。 「缶チューハイが500円だなんて、驚きだわ。まったくふざけた商売ね。早く取り締まりを受けてしまえばいいのに」 私は念のため、周囲に危険な人物がいないことを確認した。幸いなことに、私たち以外にも数十人の飲んだくれがいるようだった。もし声を上げれば、誰かが気づいてくれるだろう。この場には私たちを守ってくれる人はいない。花子にスニーカーで来るように言ったのは、いざという時に逃げるためだ。もちろん、私自身も動きやすい運動靴を履いてきている。 「若い男が居ないわよ。活気にも欠けるみたいだし、とても残念ね。せっかく新しいお洋服を着てきたのに、私を見てくれるギャラリーが居ないわ」 花子は口を尖らせながらそう言った。 「今夜はハズレかもしれないわね。当たりの日があるかは分からないけど。たまには女二人で飲むのも悪くないじゃない。私は最初からそのつもりで来たの。気を楽にして、普段のストレスを忘れられるチャンスだと思えば、きっと楽しい夜になると思うの」 「そうだったわね。今夜は守子ちゃんのお悩みを聞くためにここに来たのよね。どんなことでも、遠慮せず存分にお話ししてくれて構わないわ。心の中の靄が晴れれば、それが一番大事なことだから」 私たちはたこ焼きを一皿ずつ購入し、砂利の上にレジャーシートを広げ、その上に腰を下ろした。水の流れる音と周囲の静かな賑わいが、次第に私たちの心を和ませていく。 「結局のところ、どの会社からも内定がもらえないのよ。書類審査で次々と落とされてしまって、面接にすら辿り着けない。今はもう何もしたくない」 私は今、人生の終わりを静かに受け入れようとしている。どこか遠くで、薄暗く重い空気が漂い、私はその中で、ほとんど諦めに近い心境に沈んでいる。正社員登用の試験には受かるものだと思い込んでいたが、その期待は無慈悲に打ち砕かれ、不合格の通知を受けた。失望感が心の奥底にのしかかり、未来への希望がゆっくりと薄れていった。 「先は長そうね」 私が書類審査で落ち続ける理由は明白だ。 「私がやりたいのはWebデザインの仕事なの。だから採用の方法が少し特殊なのよ。ディレクターのような管理者や、空想上の皮算用を好むマーケターとは違って、重要なのはデザイン的に優れた成果物なの。スキルや作風を会社に示すための作品集が必要なのよ。花子にも見せたことがあったでしょう」 この作品集は一般的に「ポートフォリオ」と呼ばれる。このポートフォリオの出来栄えを見て、世の採用担当者は採否を決めるのだ。富山県にはWebデザイナーが活躍できる場所など存在しないと思い、私は東京に出てきた。東京には確かに仕事は豊富に存在する。しかし、一流のプロとして確かな品質のアウトプットを生み出せるデザイナーは、意外と少ないのが現実だ。残念ながら、私には美術的なセンスが欠けている。多少の努力は重ねているつもりだが、最前線に立てるほどの実力がない。どれほど時間を費やし、手を動かしてきたとしても、その努力が結実することはない。私はスマートフォンを操作して、花子に画面を見せた。 「守子ちゃんが作るWebページは、悪くはないと思うわよ。例えばこの化粧品のランディングページは、独特の丸みと色使いがキャッチーで、若者の心に刺さりそうな雰囲気だと思うの。だけど、全体のバランスが少し悪いように感じるわ。遠目で見ると、どこか違和感があるというか、何かが足りないような印象を受けるの。やっぱり、改善の余地が大いにあるわね」 私は自身の能力が低いことを十分に認知している。例のリネンの企画の仕事も、私が作成したものに結構な手直しが入っている。それは各所からの要求に合わせた微修正に留まらない。全体を統括するディレクターが、大幅な変更を加えたうえで納品している。私は大学を卒業しても正社員にはなれなかった。私が通っていた大学は、一般的に美大と称されるようなところではない。名前を書くだけで誰でも入学できた。環境のせいにする気はないが、もし高校生の頃に戻れるとしたら、きっと違う進路を選ぶだろう。 「デザインの良し悪しなんて、見る人の感情で決まるのよ。東京にはたくさんの会社があるから大丈夫よ。どれか一つに受かればいいの」 私はWebデザイナーの仕事を続けたいと思っている。花子の目には、私が進むべき新たな道が映っているのだろうか。彼女の顔に浮かぶ険しい表情は、言葉を発することなく多くを物語っているように見えた。状況が改善する見込みはないと、冷静に見定めているのかもしれない。その視線は、私の執着をじっと見据え、頑固に拘り続けることの無意味さを伝えようとしているかのようだった。花子の沈黙が、私の心を静かに揺らす。その微妙な波紋が広がる中で、私自身の進むべき道についての確信は、ますます曖昧になっていくようだった。 「私には、仕事に一所懸命になる人の気持ちがどうしても分からないわ」 花子は無造作に空き缶を手で潰し、持ってきたコンビニのビニール袋に押し込んだ。

終わりなき日々の始まり

「何も変わらない毎日だ」 朝、陽が昇る前の静かな時間帯。42歳の高橋秀明は、コンビニで買ったコーヒーを片手に工事現場へと向かう軽トラックを運転していた。助手席には使い込まれたヘルメットと工具袋、そして古びた釣り竿が無造作に置かれている。 秀明はこの釣り竿を常に車に積んでいる。いつでも、どこでも――仕事が早く終われば、そのまま海に向かうためだ。釣り場に立つときだけ、彼の中で何かが静かに整うような気がしていた。 現場に着くと、すでに数人の作業員が準備を始めていた。皆、黙々と機材をチェックしたり、ブルーシートを敷いたりしている。秀明もその一員としてヘルメットをかぶり、安全帯を装着した。 「おはようございます、リーダー。」 若手の作業員が声をかけてきた。秀明は軽く頷くと、指示を簡潔に伝える。今日の仕事は、建設中のビルの基礎部分のコンクリート打設だ。時間との勝負になる作業だが、秀明にとってはいつものことだった。 作業が進む中、秀明はふと空を見上げた。空は青く澄んでいて、遠くには白い雲が流れている。その一瞬の景色に、彼はなんとも言えない懐かしさを覚えた。 釣りを始めたのは、10年以上前のことだった。当時、秀明は仕事と家庭の板挟みに苦しんでいた。家族と過ごす時間を減らし、現場での責任ばかりが増えていく日々。そんなとき、同僚に誘われて初めて釣り竿を握った。 その日、海に立つ彼の心は初めて軽くなった気がした。波の音と風の匂い、そして静かに糸を垂らすひととき――それは、秀明にとって唯一の「無駄な時間」だった。仕事でも家庭でもない、自分だけの時間。それが彼にとっての釣りだった。 昼休憩になり、秀明は現場の隅で弁当を広げた。若い作業員たちはスマートフォンをいじりながら談笑しているが、秀明は遠くの空を見つめていた。 「リーダー、最近どうっすか?釣れてます?」 隣に座った若手の一人が尋ねた。 「まあまあだな。先週、40センチの黒鯛が釣れたよ。」 そう答えると、若手は目を輝かせた。 「マジっすか!それって結構デカいんじゃないですか?」 「まあな。でも、釣りってのは大物を釣るだけが楽しいわけじゃないんだよ。」 そう言って、秀明は静かに笑った。その言葉の意味を、若手がどれだけ理解したのかはわからない。だが、秀明にとって釣りは、大物を狙うためだけのものではなかった。 夕方、作業が無事に終わると、秀明は軽トラックに乗り込んだ。今日も海に行ける時間はなさそうだが、釣り竿が車にあるだけで、どこか心が落ち着いた。 家に帰ると、妻が夕食を用意して待っていた。食卓には彼が釣った魚を使った煮付けが並んでいる。 「今日も無事だったの?」 妻がそう聞くと、秀明は「まあな」と短く答えた。そのやり取りは、何年も変わらない彼らの日常だ。 夕食後、秀明は自分の部屋で釣りの道具を手入れしながら、明日もまた同じ日々が続くことを思った。それでも、その日々の中にほんの少しの余白があれば――波の音と糸の先にある静けさを想像できるなら、それで十分だと感じていた。 夜の静寂の中で、彼は道具箱の中のルアーを一つ手に取り、静かに微笑んだ。それは、彼の中で確かに存在する小さな自由の象徴だった。

残響の底で

「ねえ、麻衣ちゃん。今日のセトリ、大丈夫?」 その夜も、麻衣は狭いライブハウスの控室にいた。壁際のソファに浅く腰掛け、煙草を吸いながらぼんやりと天井を眺めている。天井の隅に染み付いた汗とタバコの匂いが、今日も変わらずそこにあった。隣でギターの純也が確認する。麻衣は煙草をもみ消し、軽く頷くだけだった。 「大丈夫よ。いつも通り。」 その返事に、純也は「そうか」と小さく呟くと、またギターの弦を爪弾き始めた。麻衣がボーカルを務めるバンド「シヴァ」は、結成して5年目になる。彼女の低く濁った歌声と、暗い詞の世界観が特徴で、一部の熱狂的なファンには支持されていた。だが、それだけだった。 5年も経てば、何かが変わるだろうと信じていた。大きな会場でライブをする日が来ると、CDが売れてラジオで流れる日が来ると――けれど、そんなことは一度も起きなかった。 ライブが始まると、麻衣は別人のように振る舞った。暗いステージの上、スポットライトに照らされた彼女は、まるで傷ついた獣のように目を光らせ、マイクに牙を剥いた。 「ねえ、聞いてよ。どうしてこんなに息苦しいんだろう。」 歌うたびに、ステージの下から歓声が上がる。それでも、その歓声は麻衣の胸に響くことはなかった。彼女は分かっている。これらの声は、決して外の世界には届かない。 ライブが終わり、アンコールも済ませて控室に戻ると、汗に濡れた髪を掻き上げながら、麻衣はソファに崩れ落ちた。 「麻衣ちゃん、今日の客入り、悪くなかったよな。」 ベースの良治が嬉しそうに言う。 「まあ、そうね。」 麻衣は短く答えただけだった。終電近くの電車に揺られながら、麻衣は自分の人生の行く先を考えていた。26歳。周りの友人たちは次々に結婚していき、職場での昇進を報告してくる。麻衣も一度は普通の仕事に就いたことがあったが、長続きしなかった。 「結局、私にはこれしかないのかもしれない。」 それでも、バンドでの生活も決して安定しているわけではない。ライブの収益だけでは暮らしていけず、昼間は喫茶店でアルバイトをしている。 「ずっとこのままなのかな……」 窓に映る自分の顔は、いつの間にか疲れ切ったように見えた。家に帰ると、狭い部屋の壁に貼られたバンドポスターが目に入った。まだ20歳だった頃、自分たちが初めてライブをしたときの記念だ。 「この頃は、何も考えずに楽しかったな。」 麻衣はそのポスターにそっと手を伸ばすが、すぐに手を引っ込めた。ベッドに横たわり、天井を見つめる。眠りにつくのが怖かった。夢の中で未来が見えることがあればいいのに――そう思いながら、麻衣はゆっくりと目を閉じた。 翌朝、店の開店準備をしながら、麻衣はふと外の空を見上げた。薄曇りの空は、どこか自分の心情に似ている気がした。 「変わらないな……」 それでも、今日も歌を歌うのだろう。この薄暗い世界で、それでも何かを残そうとする自分を笑いたいなら、笑えばいい。そう思いながら、麻衣は今日もまた生きるための準備を始めた。

静かなる荒川で起きた殺人事件 第1話

私は踵を引き摺りながら、河川敷へと続く道を歩いている。惨めな境遇が頭から離れず、憂鬱な気分だ。夏の熱波のせいだろうか。腐敗した卵の臭いが鼻に纏わりつく。このあたりの飲食店は、小綺麗とは言い難い。駅前の再開発が進み多少はマシになったが、強烈な負のイメージを払拭できず、業界大手のデベロッパーはついに撤退してしまった。この街は本来、私のような若い女が住むべき場所ではないのだ。 「久しぶりじゃないか。たまにはうちの店にも顔を出してくれよ。常連の面々も心待ちにしているよ」 この男は路地裏に佇む居酒屋のオーナー兼店長だ。ガラガラとした耳障りの悪いこの男の声を聞く度に、私は不快な気持ちになる。色褪せた黒のエプロンは、水をかぶったように濡れている。店名だと思われる何かの文字は、擦れて読めたものではない。男は振り向いた私と目が合ったことを確認して、軽く腕を上げた。 「私がこの街でお酒を飲むことはないわ。心に強く誓ったの。自分のプライドを守るために、この街では絶対にお酒を飲まないと決めたのよ。何が起ころうとも、私の信念は揺るがない」 普段の私ならこの道を避けていたはずだ。今の私の脳の表皮には、黒いヘドロがこびり付いている。もちろんそんな病気を患っているわけではない。 「相変わらず元気そうだね。安心したよ」 男は内心の呆れを隠すようにして、表情を崩さずにそう告げた。そもそもこの男と私は仲が良かったわけではなく、私は単なる常連客の一人にすぎない。互いに友達とすら思っていないし、名前すら知らない間柄だ。私の記憶からはもうすぐ消えることだろう。 私は2年前のトラブルのことは忘れようとしている。 金曜日の夜、予定もなく彷徨うようにこの店を訪れた私は、独りぼっちで粗悪な赤ワインを手にしていた。その液体は、消毒液を思わせる刺々しい味わいをまとい、舌の上で鋭く主張する。コンビニで売られている安酒にすら及ばないその劣悪さに、ツンと鼻を突き刺すアルコールの匂いが輪をかける。これほどまでに無遠慮な飲み物は、工業用エタノールを薄めたものではないかとすら思わせるほどだった。 それでも私は、どこか諦めたように、皿の上のポテトスティックを指でつまみ、その澱粉質のわずかな甘味を頼りに、少しずつ、ゆっくりとそのワインを胃の中へ送り込んでいった。 この店ではたくさんの男が私に声を掛けてきた。もちろん彼らにとっては、若い女であれば誰でも構わないのだ。そんなことは分かっている。この地球上には35億人もの女がいる。たまたま側に居たのが私で、唯一無二の私という存在が求められているわけではない。 私はその日も店内にいた数人と共に、非建設的で無益な会話を楽しんでいた。私は富山県から上京したばかりの純朴で無知な女を演じていた。演じるといっても、それは決して嘘偽りのない事実であり、私の生き様と現実そのものだ。お馴染みの草臥れたブラウスは、中学生のときに買ったものだ。胸元には蝶々結びの不思議な紐が付いていて、ワンポイントのアクセントになっている。この紐は機能的には一切の意味を持たないのだが、男の狩猟本能をよく刺激する。なぜかは分からないが、この街の男たちにはすこぶる受けがよかった。私には新しい服を買う金銭的な余裕はない。しかしながら、限られた手持ちのアイテムを工夫して着回し、ローカルマーケティングというやつを実践しているつもりだ。広告的なセンスのない人間にWebデザイナーは務まらない。 お腹が膨れてしばらく経った頃に、白髪の老人が倒れ込むようにして私の隣に座った。この街ではよくあることだ。私は驚きもせず、そのままワインを飲み続けた。すぐに別の誰かが私に話しかけてくるだろう。そう思っていた。 「お前は駄目だ。流れている」 私はワイングラスを片手に持ったまま、この老人の口元を見て、歯がないことに気付いた。 「そうね。私は流れているかもしれないわね」 私には酔い潰れた老人を介抱してやれるだけの優しさや余裕は持ち合わせていない。自分では性格が悪くはないと思っているが、お人よしではないことも確かだ。私は狭い店内を見回して、避難先を探すことにした。幸いにも、年齢が近そうなスーツ姿の男の二人組を見つけることができた。私はさりげなく目を合わせ、顎で合図を送った。彼らは瞬時にその意図を理解し、微笑み返してくれた。この老人は耳が遠いらしく、声が異様に大きかった。その声は周囲の雑音を突き破るように響き渡る。着ているシャツはところどころに穴が開き、脇から背中にかけての大部分が黄ばんでいた。この老人はこの辺りに住むホームレスなのだろうか。私はなぜこの老人と会話をしているのだろうか。周囲の誰から見てもおかしな光景だ。

白い星が降る夜に

12月24日、クリスマスイブ。都内の繁華街はカラフルなイルミネーションで輝き、カップルや家族連れの笑い声が絶えない。そんな中、一人歩く花村絵里(30歳)の表情は、どこか浮かないものだった。華やかな街並みに反して、彼女の心は灰色に曇っていた。絵里の手には小さな紙袋が握られていた。袋の中には、彼女が焼いたクリスマスクッキーと、ラッピングされた白い封筒。それを届けるため、彼女は繁華街から少し外れた静かな住宅地に向かっていた。行き先は、小さな教会の片隅にある墓地だ。 初恋の人との思い出。絵里の初恋の相手、遼(りょう)は高校時代の同級生だった。優しくて、少しシャイで、勉強は苦手だったが、音楽が好きでギターを弾く彼の姿に絵里は魅了された。放課後の音楽室、二人だけの時間。遼はいつも言っていた。 「俺、いつかお前のために曲を書きたいんだ。」 その夢が叶うことはなかった。大学受験を目前に控えた冬の日、遼は交通事故で突然この世を去った。絵里にとって、それは人生の一部が剥ぎ取られるような喪失感だった。彼女は遼が書きかけていた楽譜の一枚を今も大切に持ち歩いている。遼の死から12年が経った今でも、絵里は毎年クリスマスになると、彼の墓に手作りのクッキーと手紙を届けていた。それが、遼との思い出を繋ぎ止める唯一の手段だった。教会の墓地は、クリスマスイブとは思えないほど静かだった。雪がちらつき始め、冷たい風がコートの隙間から入り込む。絵里は遼の墓石の前に立ち、小さく息を吐いた。 「遼、今年も来たよ。」 そう呟いて、紙袋からクッキーと手紙を取り出し、墓石の前にそっと置いた。雪がクッキーに降り積もり、寒さが手紙の封筒を硬くする。彼女は手を合わせ、遼との思い出を静かに思い出していた。 「私、30歳になったよ。遼がいなくなってから、たくさんのことがあったけど、なんだか全部、心に穴が空いたままでね。きっと、遼がいればもっと楽しい人生だったんだろうなって思うんだ。」 そう語る声は震えていた。心の奥底にしまい込んでいた感情が、彼女の中で静かに波打ち始める。 偶然の再会。そのとき、雪の降る静寂を破るように背後から声がした。 「花村さん……?」 振り向くと、そこに立っていたのは中学校の同級生だった田嶋優也だった。彼は絵里と遼の共通の友人で、絵里が遼と付き合うきっかけを作ってくれた人物でもあった。 「田嶋くん……久しぶりだね。」 彼は手に花束を持っていた。 「たまにここに来てたけど、花村さんに会うのは初めてだね。クリスマスに遼のところに来るなんて、君らしいよ。」 二人は墓の前で少しの間、昔話を交わした。遼の明るさや、不器用な優しさ、そして彼が皆に愛された理由について。優也もまた、遼の死を悼みながらも前を向いて生きてきた一人だった。 「花村さん、ずっと遼のことを思ってたんだね。」 その言葉に絵里は少し驚き、笑って答えた。 「なんだかね、遼がいなかったら、今の私じゃない気がするの。忘れたくても忘れられないし、忘れたくもない。」 優也は優しく頷いた。 「俺も同じだよ。でも、遼はきっと、俺たちが幸せに生きることを望んでると思う。絵里が前に進めるように。」 その言葉に、絵里の目に涙が浮かんだ。彼女は墓石を見つめながら、心の中で遼に語りかけた。 「ありがとう、遼。私、もう少しだけ頑張ってみるね。」 教会を出る頃には雪が本格的に降り始めていた。絵里と優也は並んで歩きながら、これからのことを少しだけ話した。優也は、「またどこかで会おう」と笑い、絵里はそれに小さく頷いた。その夜、絵里の心には少しだけ温かさが灯った。遼を想う気持ちは消えることはないだろう。しかし、彼との思い出は彼女を縛る鎖ではなく、生きる力を与えてくれる灯火になりつつあった。空から降る雪は、まるで白い星のように街を包み込み、彼女の新たな一歩を祝福しているようだった。絵里はその光景を見上げながら、小さく微笑んだ。

ケーキと迷彩と青春と

「前へぇー進めッ!!!」 夏の朝、灼熱の太陽の下。迷彩服に身を包み、巨大なリュックを背負った19歳の三浦芽衣は、砂埃が舞う訓練場を必死に走っていた。 「くそっ……どうしてこうなった……」 息を切らしながら走り続ける芽衣の脳裏には、かつての夢が浮かんでいた。 「お前、何になるのが夢なんだ?」 高校3年の進路相談。担任の先生にそう聞かれたとき、芽衣は自信満々にこう答えた。 「ケーキ屋さんです!自分でお店を持つのが夢なんです!」 クッキーやケーキを作るのが大好きで、休日には家族に手作りスイーツを振る舞っていた芽衣。その笑顔が見たくて、彼女はその道を目指すと決めていたのだ。だが、現実は甘くなかった。 「専門学校の学費?……お母さん、今そんな余裕ないのよ。」 家庭の事情で夢を諦めざるを得なかった芽衣。そんなとき、ふと目にした自衛隊のポスターが運命を変えた。 「え、自衛隊?めちゃくちゃ安定してるじゃん。」 ポスターには迷彩服を着た隊員がキラキラした笑顔で「未来を守る」などと書かれていた。 「これだ……私の未来、ここで守られるじゃん」 そしてその数ヶ月後、芽衣はケーキのデコレーション用ヘラではなく、サバイバルナイフを握ることになったのだった。 「もう少しスピード上げろ、三浦!ケーキを運んでるんじゃないぞ!」 訓練教官の怒声が響く。芽衣は顔を真っ赤にしながら叫び返した。 「ケーキはこんなに重たくないですッ!」 周囲の同期たちが吹き出す中、芽衣は地面を蹴り続けた。体力訓練、格闘術、銃の取り扱い。毎日続く厳しい訓練に、芽衣は何度も心が折れそうになった。 「ケーキ屋さんって、もっと優しい世界だったんじゃないの……?」 だが、彼女には負けられない理由があった。それは、訓練所の食堂の存在だった。 「芽衣ちゃん、また新しいスイーツ出してくれたんだ!」 同期の坂口が、芽衣が作った「訓練所特製スイーツ」を手に喜んでいる。そう、芽衣は訓練の合間にこっそり厨房を借り、ケーキ作りを続けていたのだ。最初は冷やしゼリーから始め、チョコレートケーキ、さらには自衛隊のロゴを模したクッキーまで作るようになった。 「お前、なんでこんな本格的なケーキ作れるんだよ?」 ある日、坂口が不思議そうに尋ねた。芽衣は得意げに答える。 「ケーキ作りは私の夢だからね!」 「いや、普通その夢のために自衛隊入らないだろ!」 突っ込む坂口に芽衣は肩をすくめた。 「ま、人生ってそんなもんじゃない?」 そんな芽衣の作るスイーツは、瞬く間に訓練所で評判になり、ついには教官たちまで「三浦の作るプリンがうまい」と噂するほどに。だが、それを良しとしない人物が一人いた。鬼教官・大石である。 「三浦!貴様、自衛隊をなんだと思っている!」 「国を守る場所です!」 「ならば菓子作りはなんだ!」 「心を守る場所です!」 「誰がそんな名言みたいなことを言えと言った!」 そんな大石の厳しい叱責にも関わらず、芽衣のスイーツ作りは止まらなかった。そして迎えた訓練修了式の日。芽衣は仲間たちと共に迷彩服姿で式典に臨んだ。その後の懇親会では、芽衣が作ったケーキが振る舞われた。 「これ、三浦が作ったのか?本当にすごいな!」 「まるで高級ホテルのケーキみたいだよ!」 次々に聞こえてくる称賛の声に、芽衣は笑みを浮かべた。彼女の手の中には、一つの小さなクッキーがあった。それには「未来を守る」と文字が書かれている。 「自衛隊で未来を守るのもいいけど、私の未来はやっぱりケーキ屋さんかな。」 芽衣はその言葉を胸に、今日もまた迷彩服を着て走り出した。ケーキも国も守れる女。それが三浦芽衣だ。

折り目の向こう側

「今日も遅刻しないようにしないと。」 朝7時、目覚まし時計の音が響く。山下奈央はベッドからゆっくりと起き上がり、カーテンを開けた。外は曇り空。東京の片隅にある古びたアパートの窓から見える景色は、いつもと変わらない灰色のビル群だった。奈央は心の中でそう呟きながら、台所でインスタントコーヒーを入れた。テーブルの上には、スーパーで値引きされたパンがひとつだけ。彼女の月収はおよそ16万円。家賃や光熱費、最低限の生活費を差し引けば、手元にはほとんど何も残らない。それでも、奈央は毎日渋谷のアパレルショップに通い続けている。 職場に着くと、店内には明るい音楽が流れ、キラキラとしたライトが洋服を照らしていた。奈央はロッカールームで制服のエプロンを身につけ、鏡に映る自分の顔をじっと見つめた。 「これが私の戦闘服。」 そう言い聞かせるように、小さく呟いた。午前中、最初に入店したのは若いカップルだった。彼らは新品のデニムジャケットを手に取り、試着室へ向かった。 「これ、かわいくない?」 「うん、でも、値段がちょっと……」 彼らの会話を耳にしながら、奈央は自然な笑顔を作って話しかけた。 「こちらの商品、今週だけ特別価格でご案内しています。」 言葉を選びながら説明する奈央の手元には、その値段が彼女自身の生活費を軽く超えていることを示すタグがあった。 「こんなの、私には買えないな。」 心の中でそう呟きながら、客に丁寧に対応する。彼女が手に取ることのない洋服を売るために、笑顔を作る。それが、奈央の日常だった。昼休憩になると、店のスタッフルームでお弁当を広げた。中身は昨夜の残り物を詰めたご飯と漬物だけ。周りの同僚たちはコンビニの新作スイーツや、おしゃれなカフェのランチを話題にしている。 「奈央さん、今日は質素だね。」 20代前半の新人スタッフが冗談交じりに声をかける。奈央は笑顔で返したが、その声がどこか遠く感じられた。午後、入店してきたのは上品な身なりの女性だった。奈央が商品を丁寧に案内すると、女性は嬉しそうに頷き、次々と服を選び始めた。 「あなた、本当に接客が上手ね。」 その一言に、奈央の心が一瞬だけ温かくなった。だが、同時に胸の奥に沈んでいく感覚もあった。この女性のような生活を手に入れることは、自分にはないのだという現実が突きつけられる。 「ありがとうございます。またぜひいらしてください。」 そう言いながら見送った後、奈央は店内のディスプレイを整える。何かを手に入れられないことに慣れてしまう自分が怖かった。夜、閉店作業を終えた奈央は、疲れた体を引きずるように電車に乗った。車内の窓に映る自分の顔は、朝よりもさらに疲れているように見えた。 「こんな生活、いつまで続けられるんだろう。」 アパートに戻ると、薄暗い部屋の中に一人で座り込んだ。財布を開けてみると、そこには1,000円札が2枚だけ入っている。 「あと数日、これでやりくりしなきゃ……」 その現実に押しつぶされそうになりながらも、奈央は次の日の仕事の準備を始める。夜遅く、ベッドに横たわり、天井を見つめる。 「こんな私でも、いつかこの状況を変えられるのかな。」 答えのない問いが、奈央の中を静かに巡る。そのとき、ふと自分の接客を褒めてくれた女性の言葉を思い出した。 「私がやっていることに、少しでも意味があるなら、それでいいのかな。」 そう思うと、ほんの少しだけ心が軽くなった気がした。奈央は小さく息をつき、目を閉じた。外の街灯が、窓越しに部屋の隅を薄く照らしていた。