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「俺、何やってるんだろうな……」  松田翔平、29歳。地方の中小企業に勤めている。翔平の仕事は、町工場で作られた、どこか頼りない製品を売り込む営業だ。部品の精度も低く、商品開発の思想も古臭い。正直、翔平自身も自分の売っているものが「ゴミ商材」だと思っていた。「これさえあれば他社を圧倒できます!」と笑顔で営業先に頭を下げるたび、自分の中のプライドが少しずつ削られていくような気がした。そんな自問自答を繰り返しながらも、地方の狭い就職市場でまともな転職先を見つける自信はなく、嫌気が刺しながらも現状維持を続けていた。  その日も、取引先からのクレーム対応で一日中頭を下げ続けていた翔平。定時を2時間過ぎてようやく会社を出た彼は、薄汚れた営業車を駐車場に停め、自分のバイクにまたがった。翔平の愛車は、中古で手に入れたホンダのネイキッドバイク。もう10年は走っている古い型だが、翔平にとっては唯一心を癒やしてくれる存在だった。 「もう、全部どうでもいい。」  ヘルメットを被り、アクセルを回すと、エンジンが夜空に低い唸り声を響かせる。彼は街の灯りを避けるように走り出し、人気の少ない河川敷へと向かった。  河川敷に到着すると、翔平はバイクを全力で走らせた。暗闇の中、ヘッドライトの光だけが目の前の道を照らす。左右に広がるのは草むらと土手、遠くに見えるのは街の明かりだけだ。 「こんな場所で転んでも誰も助けに来ないだろうな。」  そう思いながらも、翔平はアクセルを緩めることなく、風を切って走り続けた。時速100キロを超えるスピードで走るたび、胸の中の鬱屈した思いが少しずつ薄れていくような気がした。 「こんなくだらない会社、辞めてやる……」  声に出してそう叫ぶと、河川敷の静寂がその言葉を吸い込んでいった。突然、記憶の中に高校時代の自分が蘇った。あの頃は、バイクに憧れ、仲間と自由を追いかけていた。バイク雑誌を読み漁り、初めてエンジンをかけたときの感動は今でも忘れられない。だが、そんな自由も、大人になるにつれて失われていった。家族の期待、就職活動のプレッシャー、そして地方における「安定」という呪い。 「自由って、何だったんだろうな。」  翔平はそうつぶやきながら、アクセルをさらにひねった。ふと気がつくと、バイクは河川敷の終点に近づいていた。小さな橋のたもとでバイクを停めると、エンジン音が静寂に吸い込まれ、夜の虫の声だけが聞こえた。翔平はバイクから降りて、橋の下に腰を下ろした。川のせせらぎを聞きながら、彼は空を見上げた。都会のようにネオンはなく、見えるのは満天の星空だけだった。 「こんなに星が見える場所があるなんてな……」  ふと、心の中にぽっかりと空いた穴が埋まっていくような感覚があった。その夜、河川敷で翔平はひとつの決意をした。 「こんな生活、もう終わりにしよう。自分のために生きるんだ。」  家に帰ると、彼はすぐにパソコンを開き、転職サイトに登録した。そして、自分が本当にやりたいことを模索し始めた。  数ヶ月後、翔平は新しい職場で働き始めた。そこは地方でも珍しい革新的な設計事務所で、バイク用のカスタムパーツを専門に取り扱っていた。自分の好きなものに関わる仕事をすることで、彼の毎日は充実感に満ちていた。  そして、夜の河川敷を再び訪れたとき、翔平は笑顔で言った。 「ここが俺の原点だ。これからも、好きな道を走り続けるだけだ。」  暗闇に響くエンジン音が、翔平の新たな人生のスタートを告げていた。
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静かなる荒川で起きた殺人事件 第5話

橋から川沿いに降りると、いくつかの屋台が並んでいた。ここで商売をしている者たちは、正当な許可を得ずに、闇に紛れて酒や軽食を売っている。地元の住民なら誰もがその実情を知っていて、夏になると多くの人が集まる。一級河川である荒川を眺めながら、小さな罪悪感をおかずにして、しっぽりと一杯やるのが楽しいのだ。 「缶チューハイが500円だなんて、驚きだわ。まったくふざけた商売ね。早く取り締まりを受けてしまえばいいのに」 私は念のため、周囲に危険な人物がいないことを確認した。幸いなことに、私たち以外にも数十人の飲んだくれがいるようだった。もし声を上げれば、誰かが気づいてくれるだろう。この場には私たちを守ってくれる人はいない。花子にスニーカーで来るように言ったのは、いざという時に逃げるためだ。もちろん、私自身も動きやすい運動靴を履いてきている。 「若い男が居ないわよ。活気にも欠けるみたいだし、とても残念ね。せっかく新しいお洋服を着てきたのに、私を見てくれるギャラリーが居ないわ」 花子は口を尖らせながらそう言った。 「今夜はハズレかもしれないわね。当たりの日があるかは分からないけど。たまには女二人で飲むのも悪くないじゃない。私は最初からそのつもりで来たの。気を楽にして、普段のストレスを忘れられるチャンスだと思えば、きっと楽しい夜になると思うの」 「そうだったわね。今夜は守子ちゃんのお悩みを聞くためにここに来たのよね。どんなことでも、遠慮せず存分にお話ししてくれて構わないわ。心の中の靄が晴れれば、それが一番大事なことだから」 私たちはたこ焼きを一皿ずつ購入し、砂利の上にレジャーシートを広げ、その上に腰を下ろした。水の流れる音と周囲の静かな賑わいが、次第に私たちの心を和ませていく。 「結局のところ、どの会社からも内定がもらえないのよ。書類審査で次々と落とされてしまって、面接にすら辿り着けない。今はもう何もしたくない」 私は今、人生の終わりを静かに受け入れようとしている。どこか遠くで、薄暗く重い空気が漂い、私はその中で、ほとんど諦めに近い心境に沈んでいる。正社員登用の試験には受かるものだと思い込んでいたが、その期待は無慈悲に打ち砕かれ、不合格の通知を受けた。失望感が心の奥底にのしかかり、未来への希望がゆっくりと薄れていった。 「先は長そうね」 私が書類審査で落ち続ける理由は明白だ。 「私がやりたいのはWebデザインの仕事なの。だから採用の方法が少し特殊なのよ。ディレクターのような管理者や、空想上の皮算用を好むマーケターとは違って、重要なのはデザイン的に優れた成果物なの。スキルや作風を会社に示すための作品集が必要なのよ。花子にも見せたことがあったでしょう」 この作品集は一般的に「ポートフォリオ」と呼ばれる。このポートフォリオの出来栄えを見て、世の採用担当者は採否を決めるのだ。富山県にはWebデザイナーが活躍できる場所など存在しないと思い、私は東京に出てきた。東京には確かに仕事は豊富に存在する。しかし、一流のプロとして確かな品質のアウトプットを生み出せるデザイナーは、意外と少ないのが現実だ。残念ながら、私には美術的なセンスが欠けている。多少の努力は重ねているつもりだが、最前線に立てるほどの実力がない。どれほど時間を費やし、手を動かしてきたとしても、その努力が結実することはない。私はスマートフォンを操作して、花子に画面を見せた。 「守子ちゃんが作るWebページは、悪くはないと思うわよ。例えばこの化粧品のランディングページは、独特の丸みと色使いがキャッチーで、若者の心に刺さりそうな雰囲気だと思うの。だけど、全体のバランスが少し悪いように感じるわ。遠目で見ると、どこか違和感があるというか、何かが足りないような印象を受けるの。やっぱり、改善の余地が大いにあるわね」 私は自身の能力が低いことを十分に認知している。例のリネンの企画の仕事も、私が作成したものに結構な手直しが入っている。それは各所からの要求に合わせた微修正に留まらない。全体を統括するディレクターが、大幅な変更を加えたうえで納品している。私は大学を卒業しても正社員にはなれなかった。私が通っていた大学は、一般的に美大と称されるようなところではない。名前を書くだけで誰でも入学できた。環境のせいにする気はないが、もし高校生の頃に戻れるとしたら、きっと違う進路を選ぶだろう。 「デザインの良し悪しなんて、見る人の感情で決まるのよ。東京にはたくさんの会社があるから大丈夫よ。どれか一つに受かればいいの」 私はWebデザイナーの仕事を続けたいと思っている。花子の目には、私が進むべき新たな道が映っているのだろうか。彼女の顔に浮かぶ険しい表情は、言葉を発することなく多くを物語っているように見えた。状況が改善する見込みはないと、冷静に見定めているのかもしれない。その視線は、私の執着をじっと見据え、頑固に拘り続けることの無意味さを伝えようとしているかのようだった。花子の沈黙が、私の心を静かに揺らす。その微妙な波紋が広がる中で、私自身の進むべき道についての確信は、ますます曖昧になっていくようだった。 「私には、仕事に一所懸命になる人の気持ちがどうしても分からないわ」 花子は無造作に空き缶を手で潰し、持ってきたコンビニのビニール袋に押し込んだ。

ケーキと迷彩と青春と

「前へぇー進めッ!!!」 夏の朝、灼熱の太陽の下。迷彩服に身を包み、巨大なリュックを背負った19歳の三浦芽衣は、砂埃が舞う訓練場を必死に走っていた。 「くそっ……どうしてこうなった……」 息を切らしながら走り続ける芽衣の脳裏には、かつての夢が浮かんでいた。 「お前、何になるのが夢なんだ?」 高校3年の進路相談。担任の先生にそう聞かれたとき、芽衣は自信満々にこう答えた。 「ケーキ屋さんです!自分でお店を持つのが夢なんです!」 クッキーやケーキを作るのが大好きで、休日には家族に手作りスイーツを振る舞っていた芽衣。その笑顔が見たくて、彼女はその道を目指すと決めていたのだ。だが、現実は甘くなかった。 「専門学校の学費?……お母さん、今そんな余裕ないのよ。」 家庭の事情で夢を諦めざるを得なかった芽衣。そんなとき、ふと目にした自衛隊のポスターが運命を変えた。 「え、自衛隊?めちゃくちゃ安定してるじゃん。」 ポスターには迷彩服を着た隊員がキラキラした笑顔で「未来を守る」などと書かれていた。 「これだ……私の未来、ここで守られるじゃん」 そしてその数ヶ月後、芽衣はケーキのデコレーション用ヘラではなく、サバイバルナイフを握ることになったのだった。 「もう少しスピード上げろ、三浦!ケーキを運んでるんじゃないぞ!」 訓練教官の怒声が響く。芽衣は顔を真っ赤にしながら叫び返した。 「ケーキはこんなに重たくないですッ!」 周囲の同期たちが吹き出す中、芽衣は地面を蹴り続けた。体力訓練、格闘術、銃の取り扱い。毎日続く厳しい訓練に、芽衣は何度も心が折れそうになった。 「ケーキ屋さんって、もっと優しい世界だったんじゃないの……?」 だが、彼女には負けられない理由があった。それは、訓練所の食堂の存在だった。 「芽衣ちゃん、また新しいスイーツ出してくれたんだ!」 同期の坂口が、芽衣が作った「訓練所特製スイーツ」を手に喜んでいる。そう、芽衣は訓練の合間にこっそり厨房を借り、ケーキ作りを続けていたのだ。最初は冷やしゼリーから始め、チョコレートケーキ、さらには自衛隊のロゴを模したクッキーまで作るようになった。 「お前、なんでこんな本格的なケーキ作れるんだよ?」 ある日、坂口が不思議そうに尋ねた。芽衣は得意げに答える。 「ケーキ作りは私の夢だからね!」 「いや、普通その夢のために自衛隊入らないだろ!」 突っ込む坂口に芽衣は肩をすくめた。 「ま、人生ってそんなもんじゃない?」 そんな芽衣の作るスイーツは、瞬く間に訓練所で評判になり、ついには教官たちまで「三浦の作るプリンがうまい」と噂するほどに。だが、それを良しとしない人物が一人いた。鬼教官・大石である。 「三浦!貴様、自衛隊をなんだと思っている!」 「国を守る場所です!」 「ならば菓子作りはなんだ!」 「心を守る場所です!」 「誰がそんな名言みたいなことを言えと言った!」 そんな大石の厳しい叱責にも関わらず、芽衣のスイーツ作りは止まらなかった。そして迎えた訓練修了式の日。芽衣は仲間たちと共に迷彩服姿で式典に臨んだ。その後の懇親会では、芽衣が作ったケーキが振る舞われた。 「これ、三浦が作ったのか?本当にすごいな!」 「まるで高級ホテルのケーキみたいだよ!」 次々に聞こえてくる称賛の声に、芽衣は笑みを浮かべた。彼女の手の中には、一つの小さなクッキーがあった。それには「未来を守る」と文字が書かれている。 「自衛隊で未来を守るのもいいけど、私の未来はやっぱりケーキ屋さんかな。」 芽衣はその言葉を胸に、今日もまた迷彩服を着て走り出した。ケーキも国も守れる女。それが三浦芽衣だ。

境界線の風景

「今日も頑張ろう。一日の始まりだ」 六月の朝、薄曇りの空の下、長谷川徹は役場へ向かう車を運転していた。窓を開けると、山々の緑の匂いと湿った風が入り込み、少し肌寒さを感じる。田舎町の狭い道路は、今朝も静かで、時折すれ違う軽トラックのドライバーが軽く手を挙げて挨拶をしていく。 徹は29歳。大学卒業後にUターンし、地元の小さな町役場に就職して7年目になる。所属は総務課。町の予算管理や各種イベントの企画、地元企業との調整が主な仕事だ。役場の仕事は堅実で、地元では安定した職業として評価されているが、徹自身はその仕事に特別な熱意を抱いているわけではなかった。 「おはようございます。」 役場の玄関をくぐると、古びた庁舎内に挨拶の声が響く。徹はデスクに座り、今日の予定を確認する。最初の仕事は、地元商工会との打ち合わせだった。 「観光パンフレットの制作、どう進めましょうかねえ。」 商工会の会長である古川が、資料をめくりながら話しかけてくる。彼は徹より30歳以上年上だが、妙に親しげで、半ば雑談のように話を進めるのが特徴だった。 「以前のデザインを少し変更して、新しいイベント情報を加えれば十分ではないでしょうか。」 徹は淡々と答えた。古川は頷きながらも、少し不満そうな顔を見せる。 「まあ、それもそうだけどね。もっと人を引きつけるアイデアがあればいいんだけどな。」 アイデア。徹の胸に、わずかな重みが生じる。その言葉に反応する自分を、彼は心のどこかで冷ややかに眺めていた。昼休み、徹は庁舎の裏手にある小さな公園で弁当を広げた。近くには、小川が流れており、木々のざわめきが心地よい音を立てている。 「こんな場所で生きていくことが、本当に正しいのだろうか。」 ぼんやりと空を見上げながら、徹はそんなことを考えた。大学時代の友人たちは、都会で仕事をし、それぞれのキャリアを積み重ねている。彼らのSNSには、煌びやかな生活の一端が写し出されていた。それに比べ、自分はこの小さな町で何を成し遂げているのだろうか。 町の人々の生活を支える役場の仕事。それは間違いなく意義のあるものだ。だが、その意義が自分自身にどれだけの意味を持つのか、徹には確信が持てなかった。その日の午後、徹は久しぶりに外回りに出ることになった。地元の農家を訪問し、農業支援金の手続きを確認するためだ。車を走らせると、視界には青々とした田んぼと遠くにそびえる山々が広がる。 訪問先の農家で、年老いた男性が迎えてくれた。彼の顔は深く刻まれた皺に覆われており、その手は土に染まっている。 「支援金の申請、いつも手続きが難しくてなあ。もう少し簡単にしてくれると助かるんだが。」 徹は説明しながら、老いた男性の目に映る疲労と、それでも消えない光を見つめた。その光は、毎日同じ景色を見ながら、同じ作業を繰り返してきた人間にしか持てないものだった。 「俺たちの仕事なんて、そんなに大したもんじゃないよ。ただ、この田んぼがきれいに見えるうちは、何とかやっていけると思ってるんだ。」 帰り道、徹は窓を開けて風を感じながら、その言葉を反芻していた。その田んぼのきれいさが、誰かにとってどれほど重要なものなのか。それを支えるために自分がいるのだとしたら、それは価値のあることではないか。 その夜、家に帰った徹は机に向かい、町の観光パンフレットのデザイン案を考え始めた。これまでの無難な構成ではなく、もっと大胆で、人の目を引くものにしてみよう。自分がこの町で見た景色の美しさ、それが他の人にも伝わるようなものを――。 机の上のノートにペンを走らせながら、彼はふと思った。自分がどんな形でこの町に関わり、何を残していけるのか。それを模索することが、今の自分にできる精一杯の答えなのかもしれない、と。 「まあ、焦らずやってみるか。」 小さな声でそう呟くと、窓の外から涼しい風が吹き込み、彼の肩をそっと撫でていった。

静かなる荒川で起きた殺人事件 第1話

私は踵を引き摺りながら、河川敷へと続く道を歩いている。惨めな境遇が頭から離れず、憂鬱な気分だ。夏の熱波のせいだろうか。腐敗した卵の臭いが鼻に纏わりつく。このあたりの飲食店は、小綺麗とは言い難い。駅前の再開発が進み多少はマシになったが、強烈な負のイメージを払拭できず、業界大手のデベロッパーはついに撤退してしまった。この街は本来、私のような若い女が住むべき場所ではないのだ。 「久しぶりじゃないか。たまにはうちの店にも顔を出してくれよ。常連の面々も心待ちにしているよ」 この男は路地裏に佇む居酒屋のオーナー兼店長だ。ガラガラとした耳障りの悪いこの男の声を聞く度に、私は不快な気持ちになる。色褪せた黒のエプロンは、水をかぶったように濡れている。店名だと思われる何かの文字は、擦れて読めたものではない。男は振り向いた私と目が合ったことを確認して、軽く腕を上げた。 「私がこの街でお酒を飲むことはないわ。心に強く誓ったの。自分のプライドを守るために、この街では絶対にお酒を飲まないと決めたのよ。何が起ころうとも、私の信念は揺るがない」 普段の私ならこの道を避けていたはずだ。今の私の脳の表皮には、黒いヘドロがこびり付いている。もちろんそんな病気を患っているわけではない。 「相変わらず元気そうだね。安心したよ」 男は内心の呆れを隠すようにして、表情を崩さずにそう告げた。そもそもこの男と私は仲が良かったわけではなく、私は単なる常連客の一人にすぎない。互いに友達とすら思っていないし、名前すら知らない間柄だ。私の記憶からはもうすぐ消えることだろう。 私は2年前のトラブルのことは忘れようとしている。 金曜日の夜、予定もなく彷徨うようにこの店を訪れた私は、独りぼっちで粗悪な赤ワインを手にしていた。その液体は、消毒液を思わせる刺々しい味わいをまとい、舌の上で鋭く主張する。コンビニで売られている安酒にすら及ばないその劣悪さに、ツンと鼻を突き刺すアルコールの匂いが輪をかける。これほどまでに無遠慮な飲み物は、工業用エタノールを薄めたものではないかとすら思わせるほどだった。 それでも私は、どこか諦めたように、皿の上のポテトスティックを指でつまみ、その澱粉質のわずかな甘味を頼りに、少しずつ、ゆっくりとそのワインを胃の中へ送り込んでいった。 この店ではたくさんの男が私に声を掛けてきた。もちろん彼らにとっては、若い女であれば誰でも構わないのだ。そんなことは分かっている。この地球上には35億人もの女がいる。たまたま側に居たのが私で、唯一無二の私という存在が求められているわけではない。 私はその日も店内にいた数人と共に、非建設的で無益な会話を楽しんでいた。私は富山県から上京したばかりの純朴で無知な女を演じていた。演じるといっても、それは決して嘘偽りのない事実であり、私の生き様と現実そのものだ。お馴染みの草臥れたブラウスは、中学生のときに買ったものだ。胸元には蝶々結びの不思議な紐が付いていて、ワンポイントのアクセントになっている。この紐は機能的には一切の意味を持たないのだが、男の狩猟本能をよく刺激する。なぜかは分からないが、この街の男たちにはすこぶる受けがよかった。私には新しい服を買う金銭的な余裕はない。しかしながら、限られた手持ちのアイテムを工夫して着回し、ローカルマーケティングというやつを実践しているつもりだ。広告的なセンスのない人間にWebデザイナーは務まらない。 お腹が膨れてしばらく経った頃に、白髪の老人が倒れ込むようにして私の隣に座った。この街ではよくあることだ。私は驚きもせず、そのままワインを飲み続けた。すぐに別の誰かが私に話しかけてくるだろう。そう思っていた。 「お前は駄目だ。流れている」 私はワイングラスを片手に持ったまま、この老人の口元を見て、歯がないことに気付いた。 「そうね。私は流れているかもしれないわね」 私には酔い潰れた老人を介抱してやれるだけの優しさや余裕は持ち合わせていない。自分では性格が悪くはないと思っているが、お人よしではないことも確かだ。私は狭い店内を見回して、避難先を探すことにした。幸いにも、年齢が近そうなスーツ姿の男の二人組を見つけることができた。私はさりげなく目を合わせ、顎で合図を送った。彼らは瞬時にその意図を理解し、微笑み返してくれた。この老人は耳が遠いらしく、声が異様に大きかった。その声は周囲の雑音を突き破るように響き渡る。着ているシャツはところどころに穴が開き、脇から背中にかけての大部分が黄ばんでいた。この老人はこの辺りに住むホームレスなのだろうか。私はなぜこの老人と会話をしているのだろうか。周囲の誰から見てもおかしな光景だ。

小さな幸せの積み木

「さて、今日も頑張ろう。」 都内の古びたアパートの一室、午前6時。目覚まし時計が鳴ると、28歳の桜井美紗は布団からすぐに起き上がった。部屋は6畳一間で、家賃は月5万円。狭くて古いけれど、彼女にはちょうど良い空間だった。小さく呟きながら、彼女は簡単な朝食を用意する。昨夜作り置きしておいたおにぎりと、インスタント味噌汁。それにスーパーで特売だった卵を焼いて添える。食卓は簡素だが、彼女はこの朝食の時間を大切にしていた。窓を少し開けると、近くの公園から鳥のさえずりが聞こえる。その音を聞きながら湯気の立つ味噌汁を飲むと、心がじんわりと温かくなる。 美紗は現在、スーパーのレジ打ちとカフェのバイトを掛け持ちしている。合わせて週5日、朝から夕方まで働き、年収はおよそ200万円ほどだ。それは決して多くない収入だが、彼女はそれを嘆くことなく、慎ましく生活していた。午前9時、美紗はスーパーの制服に着替え、家を出た。最寄り駅まで歩く途中、顔なじみのおばあさんが道端で花を売っている。 「おはようございます、美紗ちゃん。今日も暑いわね。」 「おはようございます。今日の花も綺麗ですね。」 そんな何気ない挨拶が、彼女にとっての活力だった。おばあさんの笑顔を見るたびに、美紗は自分も誰かを笑顔にしたいと思うのだった。スーパーでは、朝からお客様が絶えない。レジに立ちながら、品物を手に取る人々の表情を見ていると、美紗の心にもいろんな感情がよぎる。 「これ、今週の特売だよね?」 小さな子どもを連れた若い母親が、カゴの中の商品を指差して聞いてきた。 「はい、2つで割引になりますよ。」 美紗が答えると、その母親は嬉しそうに微笑んだ。その笑顔を見ると、美紗はほんの少しだけ胸が温かくなった。仕事の合間には、同僚の佳織と休憩室で話をする。 「ねえ、美紗ちゃん。昨日またネットでおしゃれなカフェ見つけたんだよ!今度一緒に行こうよ!」 「いいね。でも、給料日まで我慢しなきゃな。」 佳織はお金の話を笑い飛ばしてくれるような、気楽な存在だった。彼女との会話が、美紗の日常に少しだけ彩りを添えてくれる。夕方、カフェのバイトへと向かう途中、美紗は小さなパン屋で一つだけパンを買った。バイト先に着くと、スタッフルームでそのパンをゆっくり食べながら、短い休憩時間を過ごす。 「うちのパンも美味しいけど、ここのパンはまた違うね。」 そんな独り言をつぶやきながら、彼女はふっと笑みを浮かべる。その瞬間、自分が好きなものに囲まれていることに気づき、少しだけ幸せな気持ちになるのだった。 夜9時、家に帰ると、部屋の中には温かい明かりが灯っている。美紗はお気に入りの部屋着に着替え、簡単な夕食を作る。野菜炒めとご飯だけの質素な食事だが、冷蔵庫の中で少しだけくたびれたキャベツを使い切ると、妙な達成感があった。 夕食を終えると、彼女はお気に入りの文庫本を手に取り、小さなデスクに向かう。静かな夜、部屋にはページをめくる音だけが響く。その時間が彼女にとって、何よりも贅沢な瞬間だった。 美紗の暮らしは、決して豪華なものではない。だが、彼女の中には小さな満足が積み重なっていた。スーパーのお客様の笑顔、佳織との他愛ない会話、パン屋の小さな発見、そして静かな夜の読書。それらが一つひとつ、美紗の心を温めてくれる。 「大きな幸せなんて、なくてもいいんだ。」 そう思いながら、美紗は部屋の灯りを消し、布団に入る。窓の外では風がそよぎ、小さな夜の音が響いている。明日もまた、変わらない一日が始まる。それでも、その一日が彼女にとって大切な「小さな幸せの積み木」になることを、美紗は知っていた。

静かなる荒川で起きた殺人事件 第6話

「せっかくの夏の夜だというのに、私の心は乾いたままよ」 花子は不機嫌そうに呟いた。その口調には、私に対する不満が色濃く滲み出ていた。花子の目はどこか遠くを見つめ、何かを期待しているようだったが、その期待が叶うことはない。 「今の彼氏とはうまくいってないの?」 花子は一瞬、驚いたような顔をした。確か梅雨が明ける頃に、新しい彼氏ができたと、嬉しそうに話していたはずだ。そのきっかけは花子自身が主催した飲み会だったと思う。花子は人間関係を巧みに築き、交友の輪を広げる才能に長けている。出会いの数がとにかく多く、男を探す場に困ることがない。 「別に不満はないけどね。ピンとこないというか、魅力に欠けるというか。どうしても心の底から愛せないのよ」 「浮気はよくないよ」 花子はいつも見切りが早い。場当たり的な気まぐれで決断しているようにも見えるのだが、僅かながらに冷静な判断が宿っているかのようにも思える。おそらく彼女は、自身の若さと行動力さえあれば、男女の関係において困ることなどないと確信しているのだろう。彼女は決して、いわゆるチヤホヤされるようなタイプではない。しかし私と異なり、男たちの懐に自然に入り込む術を本能的に心得ている。 「実はね。私は今、3人の男と付き合っているの」 花子は少しバツが悪そうな顔をした。 「どういうことよ」 以前にも似たようなことがあった。 「私には本命がいるわけじゃないのよ。時間とともに私の気持ちが変わるかもしれないけど、今のところはさっぱり。惰性で関係を続けているのよね。何もかもが面倒くさいというか。夜の営みですら、心ここにあらずって感じ。多少のサービスはしてあげるけどね。私は魂が抜けた人形なの」 花子は男が途切れない。色欲が強い方ではあるが、刺激を求めているわけではなく、恋にのめり込みたいわけでもない。花子は弱者である自分を養えるだけの十分な収入があり、自分を責め立てない大樹のような男を欲している。そして何より、自身の劣等感を刺激しない、何らかの致命的な欠点のある男を探している。 「私にはお金持ちになりたいという気持ちはないの。ある程度の収入があればそれで満足なの。結婚してもアルバイトで多少は働くつもりよ。私は働くこと自体が好きではないけどね。そこは我慢するわ。ママにこの話をすると、それだと今までの生活水準を維持できないって言うのよ。だから私は稼ぎのいい男を探しているの」 花子は投げやりな口調で話を続けた。 「うちのパパは高校を卒業した後、大企業の工場で働き始めたの。今は総務部の副部長を務めていて、東大や京大を出た部下がたくさんいるのだそうよ。もちろん、自分の能力が部下よりも上だとは思ってないわ。私と同じくらい算数が苦手だしね。お世話係のような付き人がいて、仕事のほとんどはその人に一任されているらしいの。肩身が狭いといつも嘆いているわ。でもそのおかげで、お母さんがパートでも、住んでいる場所が中野区でも、それなりにいい暮らしができたのよ」 花子は、頭の良い人間に対して好意を抱かない。相手の方が格上だと察すると、まるで自分を隠すように距離を置いてしまう。その反応の背後には、彼女の中に潜む微妙なコンプレックスが影を落としている。知性は花子にとって重い鎖となり、心の奥に引け目を感じさせる要因になっている。花子は新卒で入社した会社をわずか一年足らずで辞めてしまった。人材派遣サービス業の営業職として、花子は多くの人とのやり取りを同時にこなす日々に身を置いていた。その中で、自分の限界を痛感する瞬間が訪れたのだ。頭の中で複雑に絡み合う情報や人間関係の中で、花子の頭はそれらを処理しきることができなかった。そして徐々に自らの力不足を認識し、その思いは次第に強い劣等感へと変わっていった。 花子がどのような男と付き合おうが構わないし、さしたる興味もない。今の彼らも、秋の訪れとともに似たような別の誰かに取って代わられるのだろう。季節が変わるたびに、花子の無機質な恋心もまた移り変わっていくのだ。 「守子ちゃんは順調そうね。私は太郎のことが好きになれないけどね。今でもあいつに声を掛けなければよかったと後悔しているわ。あの日の休憩室には、他に丁度いい男が居なかったのよ。運が悪かったわね」 私と太郎は花子が主催した飲み会で知り合った。急遽参加できなくなった男の代わりに、休憩室でコーヒーを飲んでいた太郎が呼ばれたのだ。太郎は花子が好むタイプにはほど遠く、どこか頭の堅い印象を漂わせていた。どの方面から見ても花子とは噛み合わないように思えた。太郎はあまり綺麗とは言えない雑然とした店内に珍しさを感じたのか、周囲を見回しながら、落ち着かない様子を見せていた。まるで色を失った風景の中にぽつんと佇む花のようで、周囲との調和を欠いているかのようだった。 「最近はあまり会っていないのよ。引け目を感じるようになってしまったの。太郎は私と違って、頭が良いし仕事もできる。いつも私の話を聞いてくれて、私の気持ちにも寄り添ってくれるけれど、それが逆に辛いのよ。私は太郎に相応しい女ではないの」 たこ焼きを完食した花子は、何本目か分からない缶チューハイの残りを一息に飲み干した。花子の視線はどこか遠くへと向かい、心の奥深くに秘められた負の感情が、静かに揺れているように感じられた。 「あいつは私たちのことを見下していると思う」 花子は横を向いたまま低い声で言った。 「そんなことは絶対にないわ。親御さんは私のことをあまり良く思っていないみたいだけどね。太郎は他人を見下して優越感に浸るような悲しい人間ではないのよ。私のことを大切に思ってくれているわ」 花子は太郎のことが好きではなかった。太郎はその立ち振る舞いから、育ちの良さが一目瞭然だった。付き合い始めた後に知ったのだが、太郎はそれなりに名のある国立大学を卒業している。本来、私とは交わることのない世界の住人だ。太郎が私に興味を持ってくれたことが、今もなお不思議でならない。 「俺と一緒に住まないかって言われているの。月末までに今のアパートを退去しなきゃいけないことを伝えたら、丁度いいタイミングだって」 私には貯金がなかった。当然のように家賃を滞納し、その果てに待っていたのは、冷徹に下された強制退去の通告だった。その紙切れ一枚が、私の居場所を容赦なく奪い去る。それまで築いてきた小さな世界が突然なくなってしまう。薄い壁越しに隣人の生活音が響く狭い部屋も、いつしか私の身体に馴染んでいたその空間も、すべてが私の手の中から滑り落ちていった。 「太郎の家は1LDKの間取りなの。二人で住むにはちょっと窮屈かもしれないけど、まあ、ストレスなく暮らしていけるくらいの広さはあるかな。私も将来的には一緒に住みたいって思っていたのよね。私は太郎のことが好きだから。太郎だって私のことを心の底から愛してくれているからこそ、そう言ってくれたのだと思う」 少し苦笑いを浮かべながら、私は話し続けた。 「相思相愛で幸せな気持ちでいっぱいなのは確かよ。だけどね、今こんな状態で一緒になるべきではないと思うの」 私には妙な拘りがあった。 「一緒に住んでしまえばいいじゃない。どうせタダで住まわせてもらえるのに」 太郎は会社が借り上げた社宅に住んでいる。太郎が何かを手に入れるために苦労する姿など到底想像できない。太郎の生活は、あたかも見えないレールの上を滑らかに進んでいるかのようで、そこに困窮の影など微塵も感じられなかった。「仕事がつまらない」が口癖になってはいるが、私の望んでいるものがそこにはすべてあったのだ。 「無職になって、家賃も払えなくなって、どうしようもない状態なのよ。惨めな思いでいっぱい。私はどうしても東京で自立して生きたいのよ。誰の力も借りたくないの」 もしも私がこの状況で太郎の家に転がり込むようなことがあれば、周囲の誰もが、そして何よりも私自身が、私を「ダメな人間」と断じるだろう。その視線、その評価、その冷ややかな呟きに包まれながら生活することなど、到底耐えられる気がしない。そんな屈辱にまみれた暮らしを送るくらいなら、路上で過ごす方がまだ誇りを保てるように思えた。ここだけは譲れないのだ。どんなに追い詰められても、この一点だけは、私の自我の中にある最後の守るべきボーダーラインとして残り続けるのだ。 「守子ちゃんは変なところで頑固よね」 親の惜しみない援助を受けながら、軽やかに日々を過ごしている花子には、私が抱えているこの漠然とした不安や、焦燥感の正体を理解することなど到底できはしないだろう。再就職が叶ったとしても、その先に待つのは、決して楽ではない厳しい生活だ。新しい服を買いそろえる余裕など夢のまた夢で、太郎とのデートでは、いつも彼が財布を開くことになる。それを思うたび、何とも言えない劣等感が胸に広がる。 目の前に広がる荒川。この川を越えた先には、少しは楽に呼吸ができるような暮らしがあるのかもしれない。けれど、私は東京を離れることだけはどうしても受け入れられない。東京という空間が私に何を与え、何を奪おうとも、私はその中で生きたいと思っている。どんなに治安が悪かろうと、駅からどれほど遠かろうと、東京都内に住み続けることだけが、私が自分自身を敗者だと認めないための、ただ一つの証明であり、唯一無二の拠り所なのだ。

微笑む影

「ここに何かあるはず……」 深夜のオフィスビルは、まるで墓場のように静まり返っていた。経理部のデスクランプだけがぼんやりと点いており、その下で資料をめくる音がかすかに響いている。吉岡茜は、資料を一枚ずつ丁寧に確認しながら、ペンでメモを取っていた。 茜はこの会社の内部監査員だ。最近、経費に不自然な数字のズレが複数回見つかり、上層部から徹底的な調査を命じられた。数万円単位の微妙な金額が抜き取られているのだが、それが継続的かつ巧妙に行われているため、誰がどのように仕掛けたのかが特定できない。 「偶然なんかじゃない。これは意図的な操作だ。」 茜は資料を手に取り、椅子にもたれかかる。データには不自然な改ざんの跡が微かに残されている。だが、その手口は非常に洗練されており、少なくとも素人の犯行ではない。 「経理部の誰かか、それとも別の部署からか……」 犯人は内部の誰か。それは確実だった。だが、犯人の痕跡は消される寸前で見つかったデータしかない。 翌朝、茜は犯行の可能性がある数人の社員のプロファイルを手に、経理部のオフィスを訪れた。誰もがパソコンに向かい、何事もなかったかのように業務をこなしている。 「おはようございます、皆さん。」 茜の姿に気づいた経理部のメンバーが一斉に顔を上げた。彼女はにこやかに挨拶しつつ、一人ひとりの表情を観察する。その中に、一瞬だけ目を伏せた男がいた。 伊藤薫――経理部のベテラン事務職員。無表情で冷静、過去に一度もミスを起こしたことがないという優秀な社員だ。だが、茜は彼の「無表情さ」にわずかな違和感を覚えた。 「伊藤さん、少しお話を伺ってもよろしいですか?」 薫は一瞬目を細めたが、すぐに柔らかな笑顔を浮かべた。 「もちろん、なんでも聞いてください。」 会議室で二人きりになり、茜は疑問を投げかけた。 「最近、経費処理に関するミスが増えていることはご存知ですよね?」 「はい。上司からも注意されました。」 薫は丁寧な口調で答えたが、その目にはわずかな冷ややかさがあった。茜はその視線を見逃さなかった。 「伊藤さんのデータ処理には一切問題が見つかっていません。でも、それが逆に気になるんです。」 薫は眉をわずかに上げ、肩をすくめた。 「私はただ、間違いのない仕事を心がけているだけです。」 その答えは完璧だったが、茜の直感はそれを信じなかった。 その夜、茜は会社のセキュリティログを調べ始めた。犯人が何かしらの痕跡を残しているはずだと信じて。数時間にわたる確認作業の末、彼女は一つの奇妙なパターンに気づいた。 「夜間に経理部のシステムにアクセスしている……?」 通常業務時間外に、特定のアカウントが何度もログインしている記録があった。そのアカウントは、他でもない伊藤薫のものだった。 「やっぱり……」 翌日、茜は伊藤のデスクを訪れ、慎重に話を切り出した。 「伊藤さん、ちょっとお手数ですが、昨日の業務後のことを教えていただけますか?」 薫は一瞬、目を細めた。 「ええ、特に何も。普通に帰りましたよ。」 茜はにこやかに笑いながら、手元の資料を彼に見せた。 「そうですか。でも、このログイン記録を見る限り、伊藤さんのアカウントが深夜にアクセスされていますね。」 その瞬間、薫の笑顔がほんの一瞬だけ消えた。 「それは……何かの間違いじゃないですか?」 「おそらくそうでしょう。でも、念のため確認させていただきます。」 茜はそう言いつつ、目を離さなかった。その視線に耐えきれなくなったのか、薫は静かに言った。 「何を疑っているのか知りませんが、私は何もしていませんよ。」 その言葉に、茜は微笑んだ。 「そう願っています。」 茜はその後も証拠を積み上げ、数日後には薫の不正行為を裏付けるデータを揃えた。上司に報告すると、伊藤薫は即座に停職処分を受けた。 その時、薫は最後に茜に向かって静かに言った。 「あなたの目は冷たいですね。俺と同じだ。」 茜はその言葉に動揺しなかった。ただ静かに見つめ返し、こう答えた。 「私は、事実を見ていただけです。」 その後、薫は会社を去ったが、茜の心には彼の最後の言葉が引っかかり続けた。真実を暴くことが正義なのか、それとも冷たい行為なのか――その答えは、まだ彼女の中で見つかっていない。 茜は今日もオフィスのデスクランプの下で資料をめくりながら、静かにため息をついた。