私は踵を引きずりながら、河川敷へと続く道を歩いている。惨めな境遇が頭から離れず、憂鬱な気分だ。夏の熱波のせいだろうか。腐敗した卵の臭いが鼻に纏わりつく。このあたりの飲食店は、小綺麗とは言い難い。駅前の再開発が進み多少はマシになったが、強烈な負のイメージを払拭できず、業界大手のデベロッパーはついに撤退してしまった。この街は本来、私のような若い女が住むべき場所ではないのだ。
「久しぶりじゃないか。たまにはうちの店にも顔を出してくれよ。他のみんなも心待ちにしているよ。酒のラインナップも増えたしね」
この男は、ひっそりとした路地に佇む居酒屋のオーナー兼店長だ。色褪せた黒のエプロンは、水をかぶったように濡れている。店名だと思われる何かの文字は、擦れて読めたものではない。男は振り向いた私と目が合ったことを確認して、軽く手を振り笑った。
「私がこの街でお酒を飲むことはないわ。心に強く誓ったの。自分のプライドを守るためにも、絶対にお酒を飲まないと決めたのよ。何が起ころうとも、私の信念は揺るがない」
普段の私ならこの道を避けていたはずだ。頭がうまく機能していないのだろう。
「相変わらず元気そうだね。安心したよ」
男は内心の呆れを隠すようにして、表情を崩さずにそう告げた。私は2年前のトラブルのことは忘れようとしている。
金曜日の夜、特に予定もなく過ごすことになった私は、この店に足を運び、注射器のような味わいの赤ワインを口にしていた。アルコールが辛くて、お世辞にも美味しいとは言えない。この店では色々な男が私に話しかけてきた。もちろん彼らにとっては、若い女であれば誰でも構わないのだ。そんなことは分かっている。この地球上には35億人もの女がいる。たまたま側に居たのが私で、唯一無二の私という存在が求められているわけではない。
私はその日も店内にいた数人と共に、非建設的で無益な会話を楽しんでいた。私は富山県から上京したばかりの純朴で無知な女を演じていた。演じるといっても、それは決して嘘偽りのない事実であり、私の生き様と現実そのものだ。お馴染みの草臥れたブラウスは、中学生のときに買ったものだ。胸元には蝶々結びの不思議な紐が付いていて、ワンポイントのアクセントになっている。この紐は機能的には一切の意味を持たないのだが、男の狩猟本能をよく刺激する。なぜかは分からないが、この街の男たちにはすこぶる受けがよかった。私には新しい服を買う金銭的な余裕はない。しかしながら、限られた手持ちのアイテムを工夫して着回し、ローカルマーケティングというやつを実践しているつもりだ。広告的なセンスのない人間にWebデザイナーは務まらない。
私がワインを飲み始めてからしばらく経った頃に、白髪の老人が倒れ込むようにして私の隣に座った。この街ではよくあることだ。私は驚きもせず、そのままワインを飲み続けた。すぐに別の誰かが私に話しかけてくるだろう。そう思っていた。
「お前は駄目だ。流れている」
私はワイングラスを片手に持ったまま、この老人の口元を見て、歯がないことに気付いた。
「そうね。私は流れているかもしれないわね」
私には酔い潰れた老人を介抱する意志など微塵もない。自分では性格が悪くはないと思っているが、お人よしではないことも確かだ。私は狭い店内を見回して、避難先を探すことにした。幸いにも、年齢が近そうなスーツ姿の男の二人組を見つけることができた。私はさりげなく目を合わせ、顎で合図を送った。彼らは瞬時にその意図を理解し、微笑み返してくれた。この老人は耳が遠いらしく、声が異様に大きかった。その声は周囲の雑音を突き破るように響き渡る。着ているシャツはところどころに穴が開き、脇から背中にかけての大部分が黄ばんでいた。私はなぜこの老人と会話をしているのだろうか。奇妙な舞台の一幕のように、周囲の誰から見てもおかしな光景だ。
「土の中で塵になっちまう。静かに消えていく。縛られるし、誰も気付かない」
何を言おうとしているのか、わずかに興味はあったが、私には分からなかった。私の何を見てそう思ったのか、言葉や文脈には果たして意味があるのか。
「何も感じない。白くなって浮かび上がる。すべてが軽くなり、なくなっていく」
「はいはい、ごめんなさいね。私には難しいみたい」
若い女に説教をしたいのだろうか。この老人はずいぶんと酔っぱらっているようだった。この店に入る前から一杯やっていたのだろう。私は面倒なことに巻き込まれたくはなかったので、波風を立てずにこの場を離れることにした。私は結構な量のお酒を飲んでいたが、しっかりとした意識があり、この先に何が起ころうとも、正しく強く対処できる自信があった。
「そこのお嬢さん、こっちで一緒に飲まないかい。楽しいお話をしよう」
先ほどの二人組の片割れが、大袈裟な身振りで手招きをした。私はこの老人とのやり取りを口実にして、自然な流れで同年代の男二人との関係を持つことに成功したのだ。
11
4
1
みんなのコメント
2024年12月22日