「ここに何かあるはず……」
深夜のオフィスビルは、まるで墓場のように静まり返っていた。経理部のデスクランプだけがぼんやりと点いており、その下で資料をめくる音がかすかに響いている。吉岡茜は、資料を一枚ずつ丁寧に確認しながら、ペンでメモを取っていた。
茜はこの会社の内部監査員だ。最近、経費に不自然な数字のズレが複数回見つかり、上層部から徹底的な調査を命じられた。数万円単位の微妙な金額が抜き取られているのだが、それが継続的かつ巧妙に行われているため、誰がどのように仕掛けたのかが特定できない。
「偶然なんかじゃない。これは意図的な操作だ。」
茜は資料を手に取り、椅子にもたれかかる。データには不自然な改ざんの跡が微かに残されている。だが、その手口は非常に洗練されており、少なくとも素人の犯行ではない。
「経理部の誰かか、それとも別の部署からか……」
犯人は内部の誰か。それは確実だった。だが、犯人の痕跡は消される寸前で見つかったデータしかない。
翌朝、茜は犯行の可能性がある数人の社員のプロファイルを手に、経理部のオフィスを訪れた。誰もがパソコンに向かい、何事もなかったかのように業務をこなしている。
「おはようございます、皆さん。」
茜の姿に気づいた経理部のメンバーが一斉に顔を上げた。彼女はにこやかに挨拶しつつ、一人ひとりの表情を観察する。その中に、一瞬だけ目を伏せた男がいた。
伊藤薫――経理部のベテラン事務職員。無表情で冷静、過去に一度もミスを起こしたことがないという優秀な社員だ。だが、茜は彼の「無表情さ」にわずかな違和感を覚えた。
「伊藤さん、少しお話を伺ってもよろしいですか?」
薫は一瞬目を細めたが、すぐに柔らかな笑顔を浮かべた。
「もちろん、なんでも聞いてください。」
会議室で二人きりになり、茜は疑問を投げかけた。
「最近、経費処理に関するミスが増えていることはご存知ですよね?」
「はい。上司からも注意されました。」
薫は丁寧な口調で答えたが、その目にはわずかな冷ややかさがあった。茜はその視線を見逃さなかった。
「伊藤さんのデータ処理には一切問題が見つかっていません。でも、それが逆に気になるんです。」
薫は眉をわずかに上げ、肩をすくめた。
「私はただ、間違いのない仕事を心がけているだけです。」
その答えは完璧だったが、茜の直感はそれを信じなかった。
その夜、茜は会社のセキュリティログを調べ始めた。犯人が何かしらの痕跡を残しているはずだと信じて。数時間にわたる確認作業の末、彼女は一つの奇妙なパターンに気づいた。
「夜間に経理部のシステムにアクセスしている……?」
通常業務時間外に、特定のアカウントが何度もログインしている記録があった。そのアカウントは、他でもない伊藤薫のものだった。
「やっぱり……」
翌日、茜は伊藤のデスクを訪れ、慎重に話を切り出した。
「伊藤さん、ちょっとお手数ですが、昨日の業務後のことを教えていただけますか?」
薫は一瞬、目を細めた。
「ええ、特に何も。普通に帰りましたよ。」
茜はにこやかに笑いながら、手元の資料を彼に見せた。
「そうですか。でも、このログイン記録を見る限り、伊藤さんのアカウントが深夜にアクセスされていますね。」
その瞬間、薫の笑顔がほんの一瞬だけ消えた。
「それは……何かの間違いじゃないですか?」
「おそらくそうでしょう。でも、念のため確認させていただきます。」
茜はそう言いつつ、目を離さなかった。その視線に耐えきれなくなったのか、薫は静かに言った。
「何を疑っているのか知りませんが、私は何もしていませんよ。」
その言葉に、茜は微笑んだ。
「そう願っています。」
茜はその後も証拠を積み上げ、数日後には薫の不正行為を裏付けるデータを揃えた。上司に報告すると、伊藤薫は即座に停職処分を受けた。
その時、薫は最後に茜に向かって静かに言った。
「あなたの目は冷たいですね。俺と同じだ。」
茜はその言葉に動揺しなかった。ただ静かに見つめ返し、こう答えた。
「私は、事実を見ていただけです。」
その後、薫は会社を去ったが、茜の心には彼の最後の言葉が引っかかり続けた。真実を暴くことが正義なのか、それとも冷たい行為なのか――その答えは、まだ彼女の中で見つかっていない。
茜は今日もオフィスのデスクランプの下で資料をめくりながら、静かにため息をついた。
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