「今日も頑張ろう。一日の始まりだ」  六月の朝、薄曇りの空の下、長谷川徹は役場へ向かう車を運転していた。窓を開けると、山々の緑の匂いと湿った風が入り込み、少し肌寒さを感じる。田舎町の狭い道路は、今朝も静かで、時折すれ違う軽トラックのドライバーが軽く手を挙げて挨拶をしていく。  徹は29歳。大学卒業後にUターンし、地元の小さな町役場に就職して7年目になる。所属は総務課。町の予算管理や各種イベントの企画、地元企業との調整が主な仕事だ。役場の仕事は堅実で、地元では安定した職業として評価されているが、徹自身はその仕事に特別な熱意を抱いているわけではなかった。 「おはようございます。」  役場の玄関をくぐると、古びた庁舎内に挨拶の声が響く。徹はデスクに座り、今日の予定を確認する。最初の仕事は、地元商工会との打ち合わせだった。 「観光パンフレットの制作、どう進めましょうかねえ。」  商工会の会長である古川が、資料をめくりながら話しかけてくる。彼は徹より30歳以上年上だが、妙に親しげで、半ば雑談のように話を進めるのが特徴だった。 「以前のデザインを少し変更して、新しいイベント情報を加えれば十分ではないでしょうか。」  徹は淡々と答えた。古川は頷きながらも、少し不満そうな顔を見せる。 「まあ、それもそうだけどね。もっと人を引きつけるアイデアがあればいいんだけどな。」  アイデア。徹の胸に、わずかな重みが生じる。その言葉に反応する自分を、彼は心のどこかで冷ややかに眺めていた。昼休み、徹は庁舎の裏手にある小さな公園で弁当を広げた。近くには、小川が流れており、木々のざわめきが心地よい音を立てている。 「こんな場所で生きていくことが、本当に正しいのだろうか。」  ぼんやりと空を見上げながら、徹はそんなことを考えた。大学時代の友人たちは、都会で仕事をし、それぞれのキャリアを積み重ねている。彼らのSNSには、煌びやかな生活の一端が写し出されていた。それに比べ、自分はこの小さな町で何を成し遂げているのだろうか。  町の人々の生活を支える役場の仕事。それは間違いなく意義のあるものだ。だが、その意義が自分自身にどれだけの意味を持つのか、徹には確信が持てなかった。その日の午後、徹は久しぶりに外回りに出ることになった。地元の農家を訪問し、農業支援金の手続きを確認するためだ。車を走らせると、視界には青々とした田んぼと遠くにそびえる山々が広がる。  訪問先の農家で、年老いた男性が迎えてくれた。彼の顔は深く刻まれた皺に覆われており、その手は土に染まっている。 「支援金の申請、いつも手続きが難しくてなあ。もう少し簡単にしてくれると助かるんだが。」  徹は説明しながら、老いた男性の目に映る疲労と、それでも消えない光を見つめた。その光は、毎日同じ景色を見ながら、同じ作業を繰り返してきた人間にしか持てないものだった。 「俺たちの仕事なんて、そんなに大したもんじゃないよ。ただ、この田んぼがきれいに見えるうちは、何とかやっていけると思ってるんだ。」  帰り道、徹は窓を開けて風を感じながら、その言葉を反芻していた。その田んぼのきれいさが、誰かにとってどれほど重要なものなのか。それを支えるために自分がいるのだとしたら、それは価値のあることではないか。  その夜、家に帰った徹は机に向かい、町の観光パンフレットのデザイン案を考え始めた。これまでの無難な構成ではなく、もっと大胆で、人の目を引くものにしてみよう。自分がこの町で見た景色の美しさ、それが他の人にも伝わるようなものを――。  机の上のノートにペンを走らせながら、彼はふと思った。自分がどんな形でこの町に関わり、何を残していけるのか。それを模索することが、今の自分にできる精一杯の答えなのかもしれない、と。 「まあ、焦らずやってみるか。」  小さな声でそう呟くと、窓の外から涼しい風が吹き込み、彼の肩をそっと撫でていった。
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