「ねえ、麻衣ちゃん。今日のセトリ、大丈夫?」
その夜も、麻衣は狭いライブハウスの控室にいた。壁際のソファに浅く腰掛け、煙草を吸いながらぼんやりと天井を眺めている。天井の隅に染み付いた汗とタバコの匂いが、今日も変わらずそこにあった。隣でギターの純也が確認する。麻衣は煙草をもみ消し、軽く頷くだけだった。
「大丈夫よ。いつも通り。」
その返事に、純也は「そうか」と小さく呟くと、またギターの弦を爪弾き始めた。麻衣がボーカルを務めるバンド「シヴァ」は、結成して5年目になる。彼女の低く濁った歌声と、暗い詞の世界観が特徴で、一部の熱狂的なファンには支持されていた。だが、それだけだった。
5年も経てば、何かが変わるだろうと信じていた。大きな会場でライブをする日が来ると、CDが売れてラジオで流れる日が来ると――けれど、そんなことは一度も起きなかった。
ライブが始まると、麻衣は別人のように振る舞った。暗いステージの上、スポットライトに照らされた彼女は、まるで傷ついた獣のように目を光らせ、マイクに牙を剥いた。
「ねえ、聞いてよ。どうしてこんなに息苦しいんだろう。」
歌うたびに、ステージの下から歓声が上がる。それでも、その歓声は麻衣の胸に響くことはなかった。彼女は分かっている。これらの声は、決して外の世界には届かない。
ライブが終わり、アンコールも済ませて控室に戻ると、汗に濡れた髪を掻き上げながら、麻衣はソファに崩れ落ちた。
「麻衣ちゃん、今日の客入り、悪くなかったよな。」
ベースの良治が嬉しそうに言う。
「まあ、そうね。」
麻衣は短く答えただけだった。終電近くの電車に揺られながら、麻衣は自分の人生の行く先を考えていた。26歳。周りの友人たちは次々に結婚していき、職場での昇進を報告してくる。麻衣も一度は普通の仕事に就いたことがあったが、長続きしなかった。
「結局、私にはこれしかないのかもしれない。」
それでも、バンドでの生活も決して安定しているわけではない。ライブの収益だけでは暮らしていけず、昼間は喫茶店でアルバイトをしている。
「ずっとこのままなのかな……」
窓に映る自分の顔は、いつの間にか疲れ切ったように見えた。家に帰ると、狭い部屋の壁に貼られたバンドポスターが目に入った。まだ20歳だった頃、自分たちが初めてライブをしたときの記念だ。
「この頃は、何も考えずに楽しかったな。」
麻衣はそのポスターにそっと手を伸ばすが、すぐに手を引っ込めた。ベッドに横たわり、天井を見つめる。眠りにつくのが怖かった。夢の中で未来が見えることがあればいいのに――そう思いながら、麻衣はゆっくりと目を閉じた。
翌朝、店の開店準備をしながら、麻衣はふと外の空を見上げた。薄曇りの空は、どこか自分の心情に似ている気がした。
「変わらないな……」
それでも、今日も歌を歌うのだろう。この薄暗い世界で、それでも何かを残そうとする自分を笑いたいなら、笑えばいい。そう思いながら、麻衣は今日もまた生きるための準備を始めた。
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