「真っ暗闇の中に、私は居る」  重く垂れ込めた雲が街全体を覆っていた。冷え切った空気の中、響くのは車のエンジン音と、早足で行き交う人々の足音。大学卒業を間近に控えた健太は、駅前のカフェの窓際席に座りながら、薄いコーヒーの味に苦笑していた。彼の手元には、昨夜から読み続けている就職情報誌。赤いボールペンの跡が無数についたページが、彼の焦りを物語っている。 「ここにある仕事は全部、僕の未来じゃないような気がする――」  健太はそう呟いてため息をついた。雑誌に載っている企業名や業務内容はどれも耳慣れないものばかりで、ただ文字として目に飛び込んでくる。どれ一つとして、自分が心からやりたいと思えるものは見つからない。高校の頃から好きだった小説を書く夢を追い続けるか、それとも家族の期待に応えて安定した職を得るか――その間で揺れ動く彼の心は、答えの出ない迷路に迷い込んでいた。  電車に乗り込んだ健太は、人波に押されて窓際に追いやられた。ガラス越しに映る自分の顔は、どこかぼんやりしている。吊革につかまる人々の無表情な群れ。スーツ姿のビジネスマン、制服を着た高校生、そしてスマートフォンを覗き込む若者たち。その誰もが、何かしらの「目的」に向かっているかのように見えた。 「僕はどこへ向かっているんだろう」  そんな考えが頭をよぎる。周囲の人々が未来の方向性を定め、明確な歩幅で人生を進んでいるように見える中、健太はただ流されるようにその場に立っていた。大学の友人たちが次々と内定を決めていく中、彼だけが取り残されている気がした。 その夜、健太は古びたアパートの狭い部屋で机に向かっていた。部屋の隅には、散乱した参考書や文学全集が積み上げられている。彼が手にしていたのは、何冊も使い古されたノートの一冊だった。小説のアイデアを書き溜めているそのノートは、すでに何百もの言葉で埋め尽くされている。 「これを書いているときだけは、自分が自由になれる気がする……」  鉛筆を握る手が震えた。最近は、書いているうちに言葉が詰まることが増えた。未来への不安が、創作への情熱を鈍らせているのだと自覚している。それでも、書かずにはいられない。「夢を追い続けることは、自己満足でしかないのだろうか」。そんな疑問が、健太の心を何度も突き刺してくる。  ある日、健太は大学の図書館で偶然、かつて好きだった作家のエッセイ集を見つけた。その中に、こんな一節があった。 「人生は常に未完成である。だからこそ、僕たちはその未完成を埋めようとあがく。たとえそれが誰にも評価されないものであっても、自分だけの光を見つけるために。」  その言葉に目を止めた瞬間、健太は胸の中で何かが崩れ落ちるのを感じた。「誰かに認められるために書くのではなく、自分のために書く。それでいいんじゃないか」――心の中でそう呟いた。  卒業式の日、健太は大学の校庭に立っていた。スーツ姿の学生たちが写真を撮り合い、未来の話で盛り上がっている。その輪に加わることなく、健太は一人で空を見上げた。曇天だった空には、薄い日差しが差し始めていた。 「僕はまだ迷っている。でも、それでもいい。今は、自分の言葉を信じて進むしかない。」  彼の手には、あのノートが握られていた。未来の不安を抱えながらも、健太は初めて心の奥底に小さな希望の光が灯るのを感じたのだった。
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