「私は前に進むことができる」
奈緒が会社に到着したのは、その翌朝の9時を少し過ぎた頃だった。フロアに足を踏み入れると、すでに何人かの先輩社員がデスクに座り、静かにキーボードを叩いている。その規律正しい空気に触れると、奈緒は背筋を伸ばし、まるで昨日の疲労を忘れるようにデスクに向かった。
スプレッドシートに記録した自分の発見を整理していると、片山が後ろからやってきた。
「おはよう、奈緒。昨日の残業、結構遅かったみたいだな。」
「はい。でも、やっと意味のあるデータが見つけられました。」
奈緒はそう言って、自分が発見したデータの矛盾と、それがどのように業績不振の原因を示しているかを片山に説明した。
片山は資料に目を通しながら、小さく頷いた。
「いい視点だな。これをもとに、チーム全体で次のステップを進めてみよう。」
そう言って片山は軽く笑みを浮かべた。その表情は、奈緒にとって自分の努力が認められたように思え、心が少し軽くなるのを感じた。
数日後、奈緒は初めてクライアントに向けたミーティングに参加することになった。チームの中で最も若手の彼女に直接の発言が求められることは少ないだろうと高をくくっていたが、会議室に入ると片山が意外な提案をした。
「奈緒、昨日まとめたデータの分析を簡単に説明してみてくれ。」
一瞬、奈緒は目を見開いた。視線が自然と他のチームメンバーに泳ぐが、誰も助け舟を出す様子はない。
「……わかりました。」
奈緒は息を整え、スクリーンに映し出された資料を見ながら説明を始めた。声は少し震えていたが、自分の言葉で話すことを心がけた。データに基づいて導き出された矛盾の原因、それがクライアントの課題の核心にどう結びつくのか。
プレゼンが終わると、会議室はしばし静まり返った。奈緒の心臓は早鐘のように鳴っていたが、その沈黙は長く続かなかった。
「なるほど。鋭い視点だね。」
クライアントの一人がそう言うと、他の参加者も頷き始めた。その瞬間、奈緒の胸には小さな自信が芽生えた。
会議が終わり、奈緒は片山と二人で帰りの電車に乗っていた。疲労感が体中に広がっているが、それ以上に心地よい達成感があった。
「お前、今日のプレゼン、よくやったな。」
片山が不意に声をかけてきた。
「本当ですか?正直、あまり自信がなくて……」
「自信なんて最初はみんなない。でも、実際にやってみると、それが自信に繋がるんだ。今日のクライアントの反応を見ただろう?」
奈緒は片山の言葉に頷きながら、自分の中に少しずつ芽生え始めた変化を感じていた。
「まだまだわからないことばかりですが、少しだけ自分が役に立てた気がしました。」
片山は笑みを浮かべながら奈緒の肩を軽く叩いた。
「それで十分だよ。最初の一歩はそれでいい。」
その夜、奈緒は久しぶりにぐっすりと眠ることができた。翌朝、目が覚めると、窓から差し込む朝日の明るさに思わず目を細めた。
「今日も、少しずつやってみよう。」
スーツに袖を通し、手帳をカバンに入れる。奈緒の中には、昨日までの不安とは違う感覚があった。それはまだ小さなものだが、確かな「進む力」を感じさせてくれるものだった。
奈緒は電車に乗り込み、いつものように揺れる車内で立ちながら窓の外を見つめた。外の景色は変わらない。それでも、彼女の中に広がる世界は確実に変わり始めているように思えた。
「これが私の冒険なんだ。」
そう呟きながら、奈緒はこれからの一日を迎える準備を整えていった。
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