「今夜も冷えるな」  夜が更け、街は一瞬の静寂を迎えようとしていた。24歳の圭吾は、橋の下で毛布を体に巻きつけながら、眠りにつく準備をしていた。春とはいえ、夜風は肌寒く、毛布の中に体を丸めても、アスファルトの冷たさが背中に伝わってくる。  圭吾がこの橋の下にたどり着いたのは、三ヶ月前のことだ。それまでは派遣の倉庫作業員として働きながら、小さなアパートで暮らしていた。だが、契約終了の知らせと同時に貯金は尽き、家賃を払えなくなった。親との縁はとうに切れている。友人と呼べる存在も、いつの間にか連絡が途絶えていた。 「生きているだけでも、まあ十分かもしれない――」  そんなふうに考えることで、なんとか自分を納得させてきた。だが、その夜はどうにも心が落ち着かなかった。近くの公園で拾ってきた小さな新聞紙が目に留まり、彼はそれを広げた。  そこには、若者の起業成功物語が特集されていた。24歳のベンチャー経営者が、「この年齢だからこそ挑戦できる」と語る記事が目に入る。 「……24歳、か。」  圭吾は鼻で笑った。自分と同じ年齢の人間が、こうも違う人生を歩んでいることに、苛立ちと虚しさが混ざり合う。かつての自分も、こうした「成功」に憧れていた時期があった。大学を中退した直後、何度も事業プランを書き、融資を申し込んだが、すべて門前払いされた。そこから道がどんどん狭まっていき、今に至る。  翌朝、早くから街の喧騒が戻ってきた。圭吾は橋の下から這い出し、近くの公園へ向かった。ベンチに座り、ぼんやりと行き交う人々を眺める。スーツ姿の会社員、子どもを連れた母親、笑い合う若者たち――どの顔も、圭吾には遠い存在に思えた。 「ここに座っていても、何も変わらないな……」  そう呟きながらも、どこかへ行く気力は湧かなかった。立ち上がる代わりに、鞄から紙とペンを取り出す。これは、彼が唯一残してきた癖だった。紙の上に、なんでもない言葉を書き連ねる。 「橋の下の寒さは、家を持つ人にはわからないだろう。」 「食べ物を手に入れる方法は、無数にあると思っていた。」 「自分の影を追いかけるのは、逃げ場がないときだけだ。」  圭吾は書きながら、どこかでこれが誰かの目に触れることを期待しているのかもしれないと思った。  その日の昼過ぎ、公園のベンチで眠り込んでいた圭吾は、不意に声をかけられて目を覚ました。 「これ、落としましたよ。」  見ると、若い女性が彼の紙を拾い上げて差し出していた。黒縁の眼鏡をかけた彼女は、どこか知的で、控えめな雰囲気を漂わせている。 「ありがとう……」  圭吾が受け取ると、彼女は少し迷うようにしながら言った。 「この文章、書いたのはあなたですか?」 「まあ、そうだけど。」 「すごく、心に響く言葉だと思います。」  その一言に、圭吾の胸の奥で何かがかすかに震えた。それは、ずっと誰にも認められなかった自分の存在が、ようやく少しだけ肯定されたような感覚だった。  それから数日、彼女は公園に何度か姿を現した。名前は佳奈子。出版社に勤めていると言った。彼女は圭吾の書いた言葉に興味を持ち、もっと見せてほしいと頼んできた。 「これを、世に出す手伝いをさせてください。」  佳奈子のその言葉は、圭吾にとってあまりに現実味がなく、最初は冗談だと思った。しかし、彼女の目は真剣だった。 「……俺みたいな人間の言葉なんて、誰も読まないよ。」 「そんなことないです。この言葉には、真実がある。」  圭吾はしばらく黙り込んだが、最後には小さく頷いた。  佳奈子の手助けで、圭吾の書いた文章が小さな文芸誌に掲載されることになった。その反響は決して大きくはなかったが、確かに読んだ人々の心に何かを残した。  橋の下に戻った夜、圭吾は満天の星空を見上げていた。自分の置かれた状況は変わらないが、胸の中にはわずかに灯る希望があった。 「灰色の空でも、少しずつ色が見えてくるのかもしれないな。」  彼は独り言を呟き、再び紙に言葉を書き始めた。その筆跡は、かつてよりも少しだけ力強くなっていた。
 0
 0
 0

みんなのコメント

コメントはありません。